2017年5月8日月曜日

大山・表参道散歩


(コース概要)

(「大山ケーブル」バス停(大山門前町)から山腹の阿夫利神社・下社を経由し、大山山頂へと至る参詣の道。大山山頂を目指す登山道はいくつかあるが、表参道として今日でも最も多くの人々が利用するコース)

 大山は、東丹沢山塊の南東端にそびえる標高1,252m程の山ではあるが、独立峰としての山容から、古くより相州(相模の国)の霊峰として崇められた信仰の山で、首都圏に近く、交通の便もよいことから、週末を中心に一年を通じて訪れる人も多いい。

 登山の前半は、門前町の「大山ケーブル」バス停から食堂や土産物屋が並ぶ「こま参道」を歩き、「追分社(旧前不動堂)」から「男坂」を登って行く。 さらに阿夫利神社・下社から「登拝門」をくぐり、「本坂」と呼ばれた参道を登り、山頂の阿夫利神社・本社へ。
 (なお、追分社から阿夫利神社・下社までは、「大山ケーブルカー」に乗り、上ることもできる)

 後半は、山頂の阿夫利神社・本社から東へ、「雷ノ尾根(いかづちのおね)」を見晴台へと下り、「二重滝」経由で阿夫利神社・下社まで下る。
 さらに下社からは、「女坂」を大山寺へと下り、「追分社(旧前不動堂)」から「こま参道」に戻ると、「大山ケーブル」バス停へと至る約4時間40分の散歩みち。


(コース)
1.「大山ケーブル」バス停 →(60分/1.5㎞)阿夫利神社・下社
 ・ 「大山ケーブル」バス停 → (こま参道) → 追分社 → (男坂) → 女坂・分岐 → 阿夫利神社・下社

2.阿夫利神社・下社 →(90分/2.0㎞)大山山頂(阿夫利神社・本社)
 ・ 阿夫利神社・下社 → 登拝門 → (本坂) → 16丁目・分岐(追分茶屋跡) → 25丁目ヤビツ峠・分岐 → 大山山頂( 阿夫利神社・本社)

3.大山山頂( 阿夫利神社・本社) →(60分/1.7㎞)見晴台
 ・大山山頂( 阿夫利神社・本社) → (雷ノ尾根)→ 見晴台

4.見晴台 →(70分/2.8㎞)「大山ケーブル」バス停
 ・見晴台 → 二重滝(二重社) → 二重滝道入口 → 女坂・分岐 → (女坂) → 大山寺 → 追分社 → (こま参道) → 「大山ケーブル」バス停

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(所要時間)
・約4時間40分/歩行距離:約8.0km (時間/距離ともに参考程度とする)

(備 考)
・記 録:2017年 05月08日
・アクセス:「小田急・伊勢原」駅(北口)
      「大山ケーブル」バス停(終点)



(動 画)



●YouTube 大山・表参道散歩https://youtu.be/vnfsPtCw2k4


(大山・表参道散歩みち)





大山・表参道散歩/独案内(2017/05/08)

1.「大山ケーブル」バス停から阿夫利神社・下社へ


■ 「大山ケーブル」バス停から「こま参道」へ

▶ 出発点となる「大山ケーブル」バス停へは、小田急・伊勢原駅(北口)から「大山ケーブル」行きの路線バスで行くのが一般的で、鈴川(大山川)の谷間に沿うように延びる門前町の坂道を上り、終点の「大山ケーブル」バス停に降り立つと、渓流の音が迎えてくれる。

終点・「大山ケーブル」バス停

















▶ まずはバスターミナルから歩き始め、市営駐車場の前を通り過ぎ、坂道を登って行く。 左の鈴川(大山川)の渓流に架かる「千代見橋」を渡って来る道が、江戸時代よりの旧道で、現在は「とうふ坂」とも呼ばれている。

バス停から市営駐車場前の坂道を登って行く。
















坂道の途中、左側・千代見橋から旧参道(とうふ坂)が合流。


















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■ 「こま参道」から「茶湯寺」へ

▶ 「千代見橋」の先で道は二手に分かれるが、右側のタイルの敷かれた道が表参道で、石段の踊り場ごとにコマ絵のタイルが貼られているので「こま参道」とも呼ばれている。石段の踊り場を上るごとに、コマの数も1つずつ増え、「大山ケーブルカー」の山麓駅まで27個を数える。

 現在の参道は、大正時代の関東大震災の後に造られたもので、参道の左側、川沿いの車道となっている道が旧道跡である。
 旧参道は、震災時の山崩れや、鉄砲水などで崩壊し、早期の修復が困難として、山側に新しく民家の敷地内を通るように参道が造られたことから、参道の所々に同じ屋号のお店が、道の両側に向い合うように建っているのはそのためである。

左・旧道跡 / 右・「こま参道」


















▶ 参道の両側には、先導師(御師)の営む宿坊・旅館や食堂、土産物屋が並び、特に江戸時代の前期頃より「大山参り」が盛んになると、大山に居住する木地師(きじし)と呼ばれた轆轤(ろくろ)を使った木工を職業とする人々が、大山参拝の土産にとコマを縁起物として売るようになったのが「大山コマ」の由来と言う。

豆腐料理・先導師(宿坊)
















「こま参道」の土産物屋
















「こま参道」のコマの絵
大山コマ
















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■ 「茶湯寺」から「雲井橋」/(元滝)へ

▶ こま参道・入口から石段を5分ほど登った途中に、「茶湯寺(ちゃとうでら)」への入口を示す古い道標が立っている。道標手前の路地を左に入り、鈴川(大山川)の渓流に架かる小橋(茶湯寺橋)を渡ると、山門跡と思われる立派な石段の奥の小さな谷戸に、民家を思わせる庵のような建物がある。

 浄土宗のお寺で、正式名は「誓正山(せいしょうざん)・茶湯殿 涅槃寺(ちゃとうでん ねはんじ)」、通称「大山の茶湯寺(ちゃとうでら) 」と呼ばれている。
 旧称を「誓正山 西迎寺」と言い、明治期の廃仏毀釈で大山町内の寺々は全て廃寺となったが、唯一残ったのはこの西迎寺だけであった。
 本尊は木像の釈迦涅槃像で、死後百一日目に仏となって帰ってきた死者の霊を、茶湯で迎えて供養する「百一日参り」の寺として知られている。

 余談ではあるが、死者の霊は、四十九日まで其の家の棟の下にいて、五十日めから黄泉路(よみじ)の旅へ出発する。 四十九日の法要に菩提寺であげる四十九個のおもちを、一日一日のお弁当とし、家族が毎日お佛壇にそなえるお水でのどをうるおし、百ヶ日めに「極楽の門」に至り、成仏(じょうぶつ)、即ち仏となる。この日が「百日忌」。
 そして百一日目には、仏となった故人が、すでに仏となっている先祖の仲間入りの為に家へと帰ってくる日だという。

 この日にお参りをすると、その道すがら故人によく似た人に会えるとか、似た声を聞くなどとも言われている。

参道左側に、「茶湯寺」入口の道標
















「茶湯寺(ちゃとうでら)」門前
















大山の茶湯寺


















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▶ 「こま参道」に戻り、再び石段を15分ほど登ると、「大山ケーブルカー」の山麓駅下の鈴川(大山川)に架かる「雲井橋」に至る。 橋の手前にある「元滝」で、土産物屋が並ぶ「こま参道」の家並みも終り、いよいよ大山の山中へと入って行く。

 土日祭日などは、参拝者や登山者で賑わう参道も、平日はのんびりとしたものである。

門前町の賑わいも「元滝」まで
















「雲井橋」


















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■ 「雲井橋」から「大山ケーブル」駅へ

▶ 「雲井橋」を渡り、石段を登って行くと右側に「大山ケーブル」の山麓駅がある。
ここからケーブルカーに乗れば、中間駅の「大山寺」を経由して、下社のある山上駅の「阿夫利神社」まで、6分ほどで登ることができる。

「雲井橋」を渡り、石段を登って行く
















右に「大山ケーブル」駅(山麓駅)・入口
















「大山ケーブル」駅


















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■ 「大山ケーブル」駅から追分社(旧・前不動堂跡)へ

▶ 「大山ケーブル」駅を右に見ながら石段を真直ぐ登って行くと、道が左右に分かれ、右側の階段を登ると広場に出る。かつて大山寺・前不動堂があった場所で、明治維新の廃仏毀釈により取り壊され、あらたに「祭神・思兼神(おもいかねのかみ)」を祀る「八意思兼神社(やごころおもいかねじんじゃ)」が建てられた。 また、是より参道は、神社右奥の石段を急登する男坂と、左奥の不動沢沿いに大山寺へと向かう女坂に分かれるところから、「追分社」とも呼ばれている。

 江戸時代の「新編相模風土記稿」にも「前不動堂より左右に登る道あり、右を男坂、左を女坂と呼ぶ。男坂を登ること十八町にして不動堂(現・阿夫利神社下社)あり・・・・云々」とある。

 江戸時代、大山全山が大山寺の領地であった頃は、これより上は俗世を離れた清僧の地とされ、ここはその結界(境界線)でもあった。 また、これより上は「女人禁制」でもあったが、日中は大山寺・不動堂(現・阿夫利神社下社)までの参拝が許されていたとも言う。

右男坂・左女坂/分岐
















追分社・男坂登り口


















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■ 追分社(旧・前不動堂跡)から男坂(八大坊・上屋敷跡)へ

▶ かつて、大山参拝の表参道は「男坂」であった。不動堂(現・下社)へと続く急峻な小尾根に石段を積み上げ、「大山詣で」の盛期には参道に沿うように、二十余の堂社が置かれ、神仏が祀られていたと伝わるが、今はその面影もなく、参拝者の多くは、「ケーブルカー」か「女坂」を利用するため、「男坂」を登って行く人の姿は少なくなった。

 「男坂」の小尾根を登りつめた所に「仁王門跡」があり、鎌倉時代の仏師・運慶の作とも伝えられる阿吽の仁王像が立っていたが、江戸期「安政の大火」で焼失したと言う。
 さらに石段を登ると東屋風の休憩所がある台地に着く。明治維新までは、大山寺の別当職を務めた「八大坊」の上屋敷があった跡である。

追分社/男坂入口
















40度近い傾斜の石段
















石段崩壊箇所、金属製の階段で補修
















男坂・仁王門下
















仁王門跡


















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■ 八大坊・上屋敷跡

▶ 八大坊とは、別名を「西楽院(さいらくいん)」とも言い、古くは戦国時代(室町期)より明治維新まで大山全山を支配し、治めていた別当(べっとう)職を勤め、供僧(ぐそう)十一坊・脇坊六坊・末寺三・御師三百坊の惣領で、大山を統括する別当坊であった。

 今は、休憩用のベンチと東屋風の休憩所が建っているだけ、スギ林に囲まれ建物の礎石が散在する以外、往時の繁栄を物語る物は見当たらない。今は一段高いところに世界の国々の戦没者を弔う「万国忠霊塔」が建っているが、かつては忠魂碑があった場所である。

 ちなみに、八大坊・下屋敷跡は、麓の門前町(福永町)にあり、現在は「阿夫利神社・社務局」となっている。

八大坊・上屋敷跡


















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■ 男坂(八大坊・上屋敷跡)から下社・茶店広場へ

▶ 上屋敷跡を過ぎたところで、左下から登ってくる「女坂」と合流、勾配も緩やかになった石段を登って行くと、右に二重滝・二重社から見晴台を経て日向薬師へと至る「二重滝道(日向越え)」の入口・分岐がある。その横を通り過ぎ、さらに石段を登ると茶店の呼び込みの声が行き交う下社下の広場に着く。(尚、茶店広場下に公衆トイレがあり、これより上には大山・山頂まで公衆トイレがないので注意)

 広場には、右側に3軒の茶店があり、その右奥から二重の滝・二重社を経て見晴台へ向かう遊歩道がある。昔は「日向越え」と呼ばれた日向薬師へと至る道である。また、広場の左奥には、ケーブルカーの山上駅である「阿夫利神社」駅がある。

男坂/女坂・分岐
















茶店広場への登り石段
















下社下の茶店広場/左奥に「阿夫利神社」駅
















下社下の茶店


















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■ 下社・茶店広場から阿夫利神社・下社へ

▶ 正面の石段を上りつめると「阿夫利神社・下社」の大鳥居が迎えてくれ、鳥居を潜った広い境内のその奥に拝殿が建っている。下社は、明治維新の神仏分離令によって大山寺・不動堂があった場所に初めて創建された。大鳥居のある場所には不動堂の大きな楼門が建っていたという。

 かつて、この国の先人たちは、山川草木、あらゆる物に神が宿ると信じ、特に巨岩、巨木、秀麗な山容を持つ山々は、神の依り代(よりしろ)と崇められた。
 古代、大山もまた山そのものが神であり、人々は山頂にある巨石をその依り代とし、これを「石尊(せきそん)」と呼び、崇め祀ったと言われている。

 「大山寺伝」によると奈良時代になり、奈良東大寺の僧・良弁僧正により大山寺が開創され、さらに、真言宗の開祖・空海(弘法大師)が東国巡錫(じゅんしゃく)の 折、大山に登り、大山寺・第三世の座に就くと、大山の神は神仏習合により、「石尊大権現」の仏号で呼ばれるようになったと言う。
 これ以降、一時衰退した時期もあったが、中世には山岳修験道の霊場として多数の修験者が山中に住み着くようになり、戦国期には武装集団化した組織へと変貌する。

 江戸期になり徳川家康の「山門改革」により、修験者の多くが山内を追われ麓に下ると門前町を形成し、御師(おし:明治維新以後は、先導師と改称)として関東一円で大山信仰の布教活動を行った結果、江戸中期には「大山詣で」の一大ブームが訪れた。

 だが、近代・明治維新の「廃仏毀釈」の大混乱の中、長く大山全山を支配していた「八大坊」は消滅、大山から仏教色が一掃されると、山頂の本社・石尊大権現は大山祇神(オオヤマツミ)、前社・小天狗は高龗神(タカオカミ)、奥社・大天狗は大雷神(オオイカツチ)などの神々に名を変え、祀られることになった。
 不動堂は破却され、その跡地に古名の「阿夫利神社」と称し、山頂に祀る三神を合祀する下社(拝殿)が創設された。
 
 大山寺・不動堂は、その後明治18年(1885年)に信者の切望により現在の女坂・中腹に「明王院」という寺名で再興されるも、「大山寺」の旧寺号が復活したのは大正4年(1915年)のことである。

 「新編相模風土記稿」には、「 ・・・・ 堂前楼門下を右に折れる山路を日向越えと言い、又不動堂の左方に路あり、これを蓑毛越えと称す。頂上へ登る道は不動堂の背後左方にあり。およそ二十八町を攀じて石尊社(現・山頂の本社)に至る。石尊社に至る以上の山路、最も嶮岨(けんそ)にして頂上は常に雲霧深く、ややもすれば大いに雲起こり、たちまち雨を降らす。雨降山の名はこれに因(よ)るか。山中寒気早く至り、初冬には既に雪降る。春に及びて猶(なお)消えず。夏は清涼にして蚊蛇の類の出ることなし ・・・・云々」と記されている。

 境内広場からは、晴れた日には眼下に相模平野、さらに相模湾と江ノ島、その向こうには三浦半島を望むことが出来る。

阿夫利神社・下社への石段
















阿夫利神社・下社の大鳥居
















阿夫利神社・下社/拝殿



















2.阿夫利神社・下社から大山山頂(阿夫利神社・本社)へ


■ 阿夫利神社・下社/「登拝門」

▶ 下社から山頂へ至る道は「本坂」と呼ばれ、下社・拝殿の左側奥にその登り口となる「登拝門」がある。 江戸時代、不動堂から山頂へ至る山域は特に聖域とされ、何人の登頂も許されなかったが、夏の例祭(夏山)の期間(旧暦・6月27日~7月17日)だけは「登拝門」が開かれ、山頂・石尊社(阿夫利神社・本社)への参拝が許された。
 ただし、これより上は「女人禁制」で、夏山の期間であっても女人が山頂へ参拝することは禁じられていた。

 今では、一年中誰もが登ることのできる大山だが、毎年、「夏山開き」初日(現・7月27日)の早朝、江戸の名残りを今に伝える「登拝門・開門」の儀式が行われる。
 現在でも江戸の三大・大山講中の一つであった日本橋の「お花講」の信者の方々により、「登拝門」の鍵が開けられ、門扉が開かれる。(江戸時代より「登拝門」の鍵を開けるのは「お花講」の信者の方々と決められている)

 これを合図に、各地から大山参拝に訪れた大山講中の信者たちの、講の名の書かれた揃いの白衣姿に「懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)・・・・」の声が、山頂へと続く参道を登って行く。
 そんな風景も今や遠い昔、今では大山山中でも江戸・元禄の昔より今に伝わる数少ない伝統行事の一つと言えるかもしれない。

 明治期になり「女人禁制」も解かれ、さらに春山(現・4月5日~4月20日)が設けられ、夏山以外にも山頂へ参拝することが出来た。

 現在、「登拝門」の扉は、通常は右側だけ開かれていますが、夏山(例祭)期間(現・7月27日~8月17日)だけは、左右の扉が開けられ、登山者に夏山の季節が来たことを知らせてくれる。

「登拝門」前
















「登拝門」/通常は右側半開
















「登拝門」/夏山(例祭)期間中は左右全開


















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■ 1丁目・「登拝門」から16丁目・蓑毛道分岐(追分茶屋跡)へ

▶ 「登拝門」から山頂までの参道は、二十八丁(町)を数える。これは「法華経(ほけきょう)・妙法蓮華経」の二十八品になぞらえたものとも言われ、門の手前右横に一丁目の標柱があり、門をくぐるといきなり114段の急な石段の登りから始まる。山頂まで登り90分。(門をくぐった石段下には、昔の一町目の標柱がある)

 石段の途中の踊場のようなところに2丁目の標石があり、さらに石段を登り切った平場が3丁目である。標石は、必ずしも距離的に等間隔で設置されているわけでもなく、急な登りが続くところでは少し間隔を短く、なだらかな登りでは少し長めに設置してあるようで、登山者心理に配慮した設置者のさりげない優しさだろうか。
 
右横に「登拝門」の一丁目標柱
















登り始めは114段の石段から
















8丁目・夫婦杉


















▶ 13丁目を過ぎた辺りから14丁目にかけて、足元の岩が露出した所に円心状の文様をした岩を見ることがある。その文様がボタンの花びらの様に、幾重にも重なってみえることから「ボタン岩」とも、タマネギの皮の様に重なって見えるところから「タマネギ石」などとも呼ばれている。凝灰岩の一種で、大山山塊に多く見られるものである。

14丁目の「ボタン岩」


















▶ 16丁目で蓑毛方面からくる裏参道が合流する。その参道の分岐点(追分)には、寛政十一年(1799)再建の高さが3メートル以上もの立派な道標があり、正面に「奉献石尊大権現大天狗 小天狗御寶前」、右側面に「從是右富士浅間道(これよりみぎふじせんげんみち) 東口冽走江十四里(ひがしぐちすばしりへじゅうより) 小田原最乗寺江七里十町(おだわらさいじょうじへしちりじゅっちょう)」、左側面に「新吉原町中 宿坊寶寿院」と彫られている。

 「裏参道」とは、大山(旧坂本村)の門前町から登る「表参道」に対して、西の門前町とも言われた蓑毛(秦野市)から直接山頂の石尊社へ至る道で、「裏参道石尊道」などとも呼ばれた。
 
 大山の南西方向、伊豆、箱根方面から小田原を経由し、或いは駿河方面から足柄峠を越え、足柄平野を横切り、渋沢丘陵を越えて秦野盆地に入り、蓑毛の宿坊で草鞋を脱ぎ、翌日には大山山頂の石尊社を参拝する道として利用されたが、門前町としての規模も小さく、表参道ほどの賑わいはなかったようである。

 また、大山の祭神・大山祇神(オオヤマツミ)と富士山の祭神・木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメ)が、父娘の関係にあるとされ、いずれか一方だけの参拝は「片参り」として御利益が薄いとされ忌嫌い、大山詣をした足で足柄峠を越え、富士参詣をする人々もいたことから、「富士浅間道」とも呼ばれていた。 逆に、富士山参詣の帰りに足柄峠を越え大山詣をした人々も、この道を歩いた。

 今から二十数年前の平成の初め頃までは、ここに古い山小屋風の「追分茶屋」の建物ががあり、土・日・連休日など夏の登山者が多いい時は、まだジュースなど売っていたような記憶もあるが、今は平地にベンチがポツンとあるだけでその面影もない。

16丁目・分岐「追分茶屋跡」


















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■ 16丁目・「追分茶屋跡」分岐から25丁目・ヤビツ峠道分岐へ

▶ 16丁目の「追分茶屋跡」を過ぎると、唯一赤土の登山道だったところに木道が設置され、19丁目を登りつめ、尾根筋にでると20丁目の「富士見台」である。

 大杉の根元から少し張り出した台地から、天気の良い日には西方の丹沢山塊の奥に富士山を望む事が出来る。「富士見台」の名の通り、下社から南東斜面に沿って樹林帯の中の本坂(表参道)を登ってきた登山者が、ここで初めて富士の高嶺を見ることが出来る場所である。

16丁目・木道
















20丁目/富士見台(雲で富士山見えず)


















▶ かつて、大山にも「山駕籠(やまかご)」と呼ばれる山登り用の乗物があり、24丁目にはその終点となる「駕籠屋 立場」があった。 これより上は聖域中の聖域とされていたことから、神社の「下馬」の風習と同様、駕籠に乗って登ってきた人々も、ここで駕籠を降り歩いて山頂を目指したという。

 「山駕籠」は、昭和30年頃まで使われていたようだが、今は本坂を迂回するように登る「かごや道」にその名残りを留めるのみとなている。

 25丁目で「イタツミ尾根」のコル(鞍部)に出ると、左側から尾根筋をヤビツ峠から登ってくる「ヤビツ峠道」が合流してくる。

25丁目・イタツミ尾根のコル
















25丁目・ヤビツ峠道分岐
















25丁目・ヤビツ峠道分岐


















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■ 25丁目・ヤビツ峠道分岐から28丁目・大山山頂(阿夫利神社・本社)へ

▶ 25丁目からは、僅かではあるが本坂で唯一ともいえる岩稜を登って行く。その様子は、初代・歌川広重(安藤広重)が描いたとされる、「不二 三十六景 相模大山 来迎谷(さがみおおやまらいごうだに)」に見ることが出来る。

 広重が実際ここまで登って描いたものかは、疑問ではあるが、少々誇張されて描かれてはいるものの、今は周囲を草木に覆われてしまったむき出しの岩場を、江戸の名もなき多くの庶民たちも確かに登って行った。

 急坂を登り切ったところが26丁目で、標石に「来迎谷」と刻まれているが、今は木立に遮られ浮世絵に描かれたような展望は望めない。

26丁目へ岩尾根の登り


















▶ 27丁目手前で「銅の鳥居」をくぐると、山頂まではあと一息。 27丁目の標石には「御中道」の文字が刻まれている。大山にも昔は、富士山の「お鉢めぐり」や「御中道巡り」のように、この鳥居の脇から山頂直下をぐるりと巡る「御中道(おちゅうどう)」があった。

 防火帯を兼ねていて、毎年、夏山が終わる直後の8月19日に「お刈り回し」と言って、麓の門前町の六町(坂本町・稲荷町・開山町・福永町・別所町・新町)の氏子が交替で、ひと夏茂るにまかせた草木を刈り払い、前社・本社・奥社の周りの燃え草などを掃除したと言う。

 現在、道は鳥居の左側(御中道跡)から西方の丹沢の山々や、その奥にそびえる富士山を眺めながら山頂を廻りこむように、北面の電波塔がある広場へと出ることが出来るが、鳥居の右側から東斜面へ至る道は、特に関東大震災以後、斜面の崩壊が激しく、通行止となって久しいことから、草木が繁茂し痕跡も消滅しつつある。 (古い写真を見ると、ガレ場のような斜面に張られたロープを頼りに、慎重に下る参拝者の姿が写っている。)

27丁目手前・「銅の鳥居」への登り
















27丁目「銅の鳥居」/左:電波塔広場へ/右:通行止
















お中道跡(西側)から電波塔広場へ


















▶ 27丁目で「銅の鳥居」をくぐり、まっすぐ石段を登って行くと、山頂入口に建つ鳥居が見えて来る。江戸・谷中の火消し「れ組」が寛政10年(1798)に建てたという「石の鳥居」で、鳥居の左側に28丁目の標石がある。 

 大山の山頂部は、奥社のある最高地点へ向かい、三段の台地状に石垣で築かれていて、入口の「石の鳥居」をくぐった所が一段目の台地で左側に「高龗神(タカオカミ)」を祀る前社が建っている。

28丁目・山頂入口の「れ組の鳥居」
















山頂・前社


















▶ 前社を通り過ぎ、石段を登ると二段目の台地に「大山祇神(オオヤマツミ)」を祀る本社がある。御神体は社殿の下にあるという「磐座(いわくら)」で、青い巨石とも言われているが、宮司以外は誰も見ることが出来ないと言う。「石尊大権現」の名はこれに由来するものであろうか?

山頂・本社入口の石段
















山頂・本社


















▶ 本社の右側を廻りこむように進むと、奥社のある三段目の台地に至る石段がある。
 石段横には、海の守り神「鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)」を祀る「徳一・八天社」の小祠(しょうし)があり、眼下に広がる相模湾沿岸の漁民の豊漁祈願や、沖合を航行する船人の海上安全祈願の守護神として信仰されてきたという。

 「徳一・八天社」横の石垣沿いには「雨降木」と呼ばれる御神木のブナの古木がある。

「徳一八天社」
















御神木のブナの古木
















山頂・奥社への石段


















▶ 一番上の台地には、「大雷神(オオイカツチ)」を祀る奥社(奥の院)と、その隣に休憩所の建物がある。以前は飲物などの自動販売機が置いてあった(時々悪戯され使えないこともあった)が、最近(平成15~16年頃からか?)、本社の横にお茶屋さんが再営業され、週末・休日などは結構繁昌しているようだ。

 明治期になり、本坂から山頂までの間に12軒ほどの「お茶屋さん」ができ、水・お茶・麦茶・甘酒・せんべい・もち・草鞋(わらじ)などを売っていたと言う。
 戦後の高度成長期を迎え、登山者の装備も整うようになると、お茶屋を利用する客も減少していったことから、少しずつ廃業する店も増え、一時は一軒も無くなってしまっていたが、最近になり登山者も増えたことから、山頂のお茶屋さん一軒だけが復活したようだ。

 休憩所の前に「標高1,251.7メートル」と記した標柱が建っている。晴れた日の山頂からの展望は雄大で、登山の疲れを癒すには十分であろう。

山頂・奥社(奥の院)
















山頂・広場
















山頂・標柱



















3.大山山頂(阿夫利神社・本社)から「見晴台」へ


■ 大山山頂(阿夫利神社・本社)から「雷ノ尾根」を見晴台へ

▶ 大山山頂からは、東稜の「雷(いかづち)ノ尾根」を「見晴台」へ一気に下って行く。 表参道(本坂)に比べ利用者は少ないが、山頂から「見晴台」までの間は、「日向薬師道」と同じルートをたどり、急峻で登山道も細いため、土日祭日などはそれなりに混雑する。

 山頂広場の東端に「不動尻 4.3km / 見晴台 2.5km」の道標が立つ東尾根・下山口がある。

山頂・東尾根下り口
















山頂東尾根下り口道標・見晴台へ


















▶ 東尾根・下山口から一段下りた所に東面展望広場があり、眼下に相模平野、京浜地区、さらに東京都心部や三浦半島を眺めることが出来る。正月元旦には、遥か房総半島から上る初日の出を見るために、多くの登山客で賑わうところでもある。

山頂直下・東面展望広場
















東尾根下山道・見晴台方面へ
















不動尻道分岐・見晴台方面へ


















▶ 急坂が終り、鞍部を過ぎ緩やかな上りに変わると、程なく「見晴台」である。尾根沿いに幾つかの木造ベンチと、その奥に東屋風の休憩所があり、その名のとおり、かつては相模平野が一望できたと言うが、今は周囲の林の木々も育ち、大山山頂部・大山の肩から北東の三峰山方面にのびる稜線を望むのみとなっている。
それでも、天気の良い休日などは、お弁当を広げ一休みする登山客で賑わう所である。

薬師道分岐・見晴台
















見晴台から山頂方向を振り返る



















4.見晴台から「大山ケーブル」バス停へ


■ 見晴台から二重滝(二重社)へ

▶ 「見晴台」からは、稜線沿いに下って行く「日向薬師道」と分かれ、右の杉林の中の道を、やや等高線に沿うように「二重滝」を経て「阿夫利神社・下社」へと下って行く。
 
見晴台分岐・下社方面へ
















二重社手前の遊歩道


















▶ 「見晴台」から「阿夫利神社・下社」へ向かう遊歩道の途中に、「二重社」の小さな社(やしろ)がある。今は、「高龗神(タカオカミ)」を祭神として祀るが、明治維新の廃仏毀釈以前までは、大山寺の「倶利迦羅竜王堂」があり、不動明王の化身、「倶利迦羅竜王(くりからりゅうおう)」が、雨乞い・雨止めなどの水を司る龍神として祀られていた。

 さらに、「二重社」の左奥にあるのが「二重滝」である。上下二段の岩壁を流れ落ちてくるところから付けられた名だろうか。
 大山川(鈴川)の源流であり、修験者の禊の行場でもあったことから「浄めの滝」、また雨乞いの儀式に、この滝の水を御神水として戴いたことから、「雨乞いの滝」とも呼ばれていた。

 ちなみに、現在阿夫利神社・下社の拝殿横の石段を下りた所にある御神水の湧水は、この二重滝上部の山中の湧水を引水したものらしい。

二重社
















二重滝


















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■ 二重滝(二重社)から大山寺へ

▶ 二重滝の渓流に架かる石橋を渡ると、道は平坦になり、「大新稲荷神社」
の小社を過ぎた所で下社への分岐がある。
 右の石段を登ると下社下の茶店の広場へ出るが、大山寺へはこのまま直進すると、程なく「二重滝道(日向越え)・入口」の道標が立つ分岐で表参道に合流する。

大新稲荷神社
















二重滝道(日向越え)・入口


















▶ 表参道に合流したところで、左へ石段を下って行くと男坂と女坂の分岐である。
 分岐点の右端に「従是女坂道」「文化五年弥生」(1808年3月建立か)と刻まれた道標が建っている。

表参道・男坂/女坂分岐
















男坂/女坂分岐
















女坂道・道標


















▶ 分岐からは右の女坂を下って行く。女坂と言っても、ここから大山寺手前の不動沢に架かる「無明橋」までは、男坂に劣らず険しい下り坂が続く。

 女坂を下って行くと、所々に「女坂の七不思議」なるものがある。江戸時代までは男坂が主な参拝路で、江戸時代に描かれた絵図にも女坂は訪れる人も少なく、今の大山寺辺りに「來迎院」らしき草庵が描かれているのみで、男坂に比べても寂しい参拝道であったのだろう。

 明治になると信仰の山から、次第に観光色が強まっていくなかで、「女坂の七不思議」のようなものが創られたのかもしれない。ちなみに、女坂の七不思議とは「目形石・潮音洞・無明橋・逆さ菩提樹・爪剪地蔵・子育て地蔵・弘法の水」の七つである。

 「無明橋」を渡り、坂を下ると大山寺である。名称は「雨降山 大山寺」真言宗の寺で、大山寺縁起によると、天平勝宝七年(755)、東大寺の別当良弁僧正により開創され、山の中腹(現在の阿夫利神社下社がある場所)に不動堂を設けたという。

 その後、一時衰退していた大山を再興、中世以降は山岳修験道の霊場として別当八大坊を中心に僧坊18ヶ院、末寺3寺を有するなど、多くの僧侶・修験者が山中に住み着き、次第に武装集団化していった。

 戦国の世も終わり、江戸幕府が開かれると、これら武装勢力の存在を危惧した幕府の「慶長の山門改革」により、山内の僧侶の数を二十五名までと定め、その他の無学不律の僧・修験行者などを全て追放し、山内を寺院本来の宗教活動に専念する清僧の地とした。

 山を追われた修験者などの多くが、麓の旧坂本村(大山)や旧蓑毛村(蓑毛)などに住みつき、やがて大山寺の門前町を形成すると、御師となり江戸を中心とする関東各地に大山信仰をひろめ、「大山講」の結成など江戸時代の「大山詣り」の一大ブームを起こすことになる。

 大山寺は、明治の神仏分離・廃仏毀釈により一時廃寺となるも、「宝珠山 明王寺」として明治18年、建設開始から約9年、多くの信者の浄財により現在の場所(来迎院敷地)に再建される。 尚、旧称の「雨降山 大山寺」に復帰を許されたのは、大正4年(1915)のことであった。

大山寺


















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■ 大山寺から追分社へ

▶ 大山寺からは、石段の両脇に不動明王の従者である童子像が並ぶ急な石段を下って行く。80段ほどの石段を覆うように茂る紅葉(カエデ)は、秋の紅葉シーズンになるとライトアップされ多くの人が訪れるなど、紅葉の名所となっている

大山寺参道


















▶ 石段を右へと下ったところに、古ぼけた寺院がある。元は男坂と女坂か分岐する追分社があるところに建てられていた前不動堂で、「安政元年の大火」(1854)で焼失した後に再建されたもので、明治の廃仏毀釈運動の中、現在の地に移築されたと言われる。
 また、その左側にある小堂は、二重滝(現・二重社)にあった龍王堂と言われ、これも廃仏毀釈時にこの場所へと移され、破壊から免れた貴重な建物とも言える。
 ちなみに、「倶利迦羅竜王堂」は大山山内でも最古の建造物と言われている。

倶利迦羅堂(旧二重滝・竜王堂)
















前不動堂(旧追分前不動堂)



















▶ 前不動堂を不動沢沿いに更に下って行くと、石段の途中にある巨石に彫られた磨崖仏がある。大山山内では珍しく、弘法大師が爪で一夜のうちに彫ったと伝えられ、七不思議の一つ「爪剪地蔵(つめきりじぞう)」と呼ばれている。ただし、作者は不明だが慶安五年(1652)に造られたと言われていることから、少なくとも弘法大師の時代に彫ったものでないことは確かなようだ。

磨崖仏(七不思議の三・爪剪地蔵)


















▶ 不動沢沿いに紅葉橋、真玉橋と下り、追分社横の石段を下りたところに古い民家がある。かつては真玉橋辺りまで数軒の民家があり土産物屋などを営んでいたが、現在は
この民家一軒だけとなった。

 追分社で男坂と合流すると、「大山ケーブルカー」の山麓駅横を過ぎ、再び「こま参道」に戻ると「大山ケーブル」バス停へと下る。

追分社・女坂分岐(大山最奥の民家)
















女坂・追分附近
















男坂と女坂・追分


















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■ 追分社から「大山ケーブル」バス停へ

▶ 「大山ケーブルカー」の山麓駅横を過ぎ「雲井橋」渡ると「こま参道」最上部の「元瀧」に戻ってくる。ここからはバス停まで15分ほどの下りとなる。
 5月連休が終わったばかりの平日でもあったからか、参道を歩く観光客の姿もなく、土産物屋や食堂も開店休業状態で、夏山のシーズンまで一休みと言ったところか。

こま参道・元滝
















こま参道
















こま参道
















こま参道
















こま参道


















▶ 「こま参道」を下り、第二市営駐車場前の坂道を下って行くと、「大山ケーブル」バス停である。

第二市営駐車場前
















大山観光案内所前
















「大山ケーブル」バス停