2016年12月13日火曜日

煤払い(すすはらい)



 12月に入り「師走(しわす)」の声を聞くと、毎年のように一年の過ぎるのが早く感じられてしまう。

 関東では、晩秋から初冬へと移り、山麓の紅葉も盛りを過ぎようとしている12月13日、昔でいえば「煤払い(すすはらい)」、「煤掃(すすはき)」の日として、この一年間に溜まった煤や埃を掃き清めるとともに、邪気や穢れをも払うという意味の年中行事が行われる日でもある。
  
 まもなく新年を迎えることから、この日を「正月事始め」・「正月始め」・「年取の始り」などとも呼び、正月の準備を始める日とし、併せて大掃除を行うことも多く、「年の瀬」の行事であった。

 また、この日を「煤取節供」、「煤掃節供」、「煤掃の年取」、「煤の年取」などと言い、煤払いが終わった晩には、「煤払い祝い」などと言って、煤払いもちや団子、赤飯、里芋の煮物など地域によって少しずつ異なるが、神棚へそなえ、家族で食べる風習もあったが、近年はそう言った風習なども少しずつ忘れられてしまったようで残念である。
 ただ、各地の神社や寺院では、煤払いの様子が年末の風物詩としてテレビや新聞などで伝えられることも多いい。

 「煤払い」の手順としては、まず神棚、仏壇・仏具を掃除し、それから、台所をはじめ各部屋を掃除する。 ただし、正月にはまだ少し早いので、今では13日には神棚、仏壇の煤祓いだけを行い、その他の場所は後日、年の暮近くに行うように変わって行った。

 また、掃除用具である笹竹は、古来より邪気を払うとされ、その先に葉や藁を付けたものを作り、これを「清め竹」、「煤男」、「煤梵天」、「ボンボリ」などと言う地域もあり、鴨居や天井など普段手の届かない高い場所を掃除する便利な道具というだけではなく、その場所を清める特別な道具といった信仰的な意味もあったと思われる。

 さらに、「煤払い」で使用した笹竹は、すぐに処分せず庭など屋外に立てて置き、小正月(正月14日)前日の左義長(さぎちょう)、どんど焼き等の際に「お焚きあげ」するという地域もある。

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 ところで、煤払いの笹竹といえば明日は12月14日、旧赤穂藩士・四十七士による吉良邸討ち入り事件のあった日でもある。

 この時期になると、東映の時代劇映画で銀幕のオールスターキャストによる「忠臣蔵」物が映画館で上映されていた。 いわゆる団塊の世代がまだ子供だった頃の師走の風景であった。

 元禄15年(1703)12月14日深夜(15日午前4時~6時頃)、旧赤穂藩士・大石内蔵助(おおいし くらのすけ)以下47名が、藩主・浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)の遺恨をはらさんと、江戸市外の本所松阪町にある吉良邸に討入り、吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ/よしなか)の首を討ち取り、見事に本懐を遂げた事件である。

 その後、この事件を扱った物語は、浄瑠璃や歌舞伎では「仮名手本忠臣蔵」通称、「忠臣蔵」、講談では「赤穂義士伝」、「義士伝」として今に語り継がれてきた。

 なかでも義士それぞれにまつわる逸話(演目・外伝として多くが創作されたものであるが)により、江戸庶民から喝采を持って迎えられ、歌舞伎・講談の興行で不入りが続く時でも、これらの演目を出すと人気を博したと言う。
 
 「講談師、義士とお化けで、めしを食い」と言われたように、講談でも冬は赤穂義士伝、夏は怪談話でめしが食えたと言うほど人気があったと言う。

 その中の一つ、四十七士の一人・大高源吾(忠雄)と俳諧師・宝井其角(たからい きかく)にまつわる逸話に「両国橋の別れ」がある。

 大高源吾は、名を「忠雄(ただお)と言い、赤穂藩士・20石5人扶持ではあったが、俳号を「子葉(しよう)」と言い、俳人としての才能を発揮、文化人・風流人として江戸に於いても宝井其角などの俳諧師とも交流があったと言う。

 赤穂藩・改易(かいえき)以降、江戸では上方(大阪)の呉服商の番頭・脇屋新兵衛(わきやしんべえ)を名乗り、身分を隠していた大高源吾は、俳人としての縁から吉良家出入りの茶人・山田宗偏に入門し、12月14日に吉良屋敷で茶会が行われるとの情報を知ると、大石内蔵助は、これらの情報をもとに、この日には吉良邸に上野介が必ず居るとの判断から、討ち入り決行日と決めたとも言われている。

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師走も半ば、明日は「討ち入り」と言う前日の13日、江戸時代には江戸城でも「御煤払い」というのが行われており、13日は大表、14日が大奥、15日が二の丸と御櫓(おやぐら)の大掃除と3日がかりで行われていた。

 これに合わせて江戸城下の諸大名、旗本、高家、商家などでもこの日に煤払いをする屋敷が多かったことから、その煤払いを当てにして笹竹を売り歩く者も多かった。

 この日、討入り前の吉良邸内の様子を探索しようと「煤竹売り」に変装していた大高源吾は、両国橋のたもとで偶然、俳諧仲間の宝井其角と出合い声をかけられる。


「子葉(大高源吾)先生じゃありませんか」
(見れば、みすぼらしい格好の「煤竹売り」姿、久しぶりに会う大高源吾の変わり果てた姿に憐れみさえ感じる。)

「これは、これは、茅場町の宗匠(宝井其角)、いな所にてお目にかかる」

 身は落ちぶれても、さすがに風流の心までは捨てはいないとみた宝井其角、別れ際に筆を出し、巻紙に
「 年の瀬や 川の流れと 人の身は   」 と書き、子葉(大高源吾)に渡すと、
( 「年の瀬や 水の流れも 人の身も   」 とした講談、歌舞伎・演目もあり )

子葉(大高源吾)が
「 あした待たるる その宝船 」  と書き加え、其角に返した。

 だが、さすがの宝井其角も、大高源吾の返句の真意を見抜くことが出来ず、雪の舞うこの寒空のなか、袢纏(はんてん)一枚では寒かろうと、自分の着ていた羽織を脱ぎ、大高源吾にそっと掛けてやり、「いずれまたと」、二人は別れた。

 子葉(大高源吾)と別れた宝井其角、先ほどの羽織が肥前平戸藩主・松浦侯より拝領したものである事を思い出し、翌日の14日、俳諧の門人でもある松浦侯を訪ね、拝領の羽織を大高源吾にやってしまった事を詫びると、その折に大高源吾が詠んだあの付句を見せた。
 
「 年の瀬や 川の流れと 人の身は (其角) /  あした待たるる その宝船 (子葉) 」 

これを見た松浦侯、2~3度詠み返すと、
「其角、ここへ来る間に、これを誰か他の者に見せはしなかったか?」 と問いただす。

「いえ、誰にも見せてはいたしません」と、其角が答える。

「 あした待たるる その宝船、 其角そちにこの意味がわかるか? 武士でない其方には、武士たるもののこの心根が分かるまい。」 

 かねてより、宝井其角から子葉(大高源吾)が元・赤穂藩士であったことを聞いていた松浦侯、
「今日は何日じゃ、 月こそ違えど亡君・浅野内匠頭殿の命日であろう。
 武士たるもの、たとえその身は落ちるとも、武士(もののふ)の心まで失くしてはおるまいて。」

 これを聞いた其角、ここでやっと子葉(大高源吾)の言った「その宝船」の真意を悟ると、友として打ち明けてくれた大高源吾の心根を推し量る技量もない己の未熟さを恥る。
(松浦侯は、長崎県北部から壱岐周辺を根城としていた松浦水軍率いる松浦党(まつらとう)の末裔で、肥前平戸藩の第4代藩主・松浦重信(鎮信)がモデルと言われる。なお、演目では松浦=”まつら”、ではなく敢えて”まつうら”と読んでいる。)

 この夜、吉良邸に討ち入った大高源吾ら赤穂浪士47名は、吉良上野介を討ち果たし、見事に本懐を遂げる。 

 正月、七福神により幸福と富・吉報をもたらすとされる縁起物の宝船、赤穂義士にとって本懐を遂げる事こそが吉報・宝船であったことであろう。

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宝井其角と大高源吾の両国橋での逸話は、江戸・森田座で初演された『新舞台いろは書始』で登場しており、明治の大阪・角座で演じられた『松浦の太鼓』(まつうらのたいこ)、さらに中村鴈治郎の演じる『土屋主税』(つちや ちから)と、史実と虚構(フィクション)を取り交ぜながら改作されてきた。

 吉良邸討ち入りで本懐を遂げた赤穂浪士はその後、4藩の各江戸藩邸にお預けとなり、そのうち大高源吾ら10名は、伊予松山藩 三田中屋敷にお預けとなった。

 その後、 幕府より大石内蔵助以下、四十七士全員に切腹が申し付けられ 元禄16年(1703年)2月4日、大高源吾も伊予松山藩 三田中屋敷にて切腹、享年32才であったという。 この時詠んだ句が、辞世の句として伝えられている。

「梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山」  (辞世の句)

( 桜の咲くにはまだ少し早いが、藩邸の庭先にはもう早咲きの梅の花が咲いていたのかもしれない。「死出の旅」を「梅の花見」とは、いかにも風流人らしい。)

 宝井其角は、松尾芭蕉門下生でもあり、芭蕉没後の江戸俳諧で一番の勢力となり、赤穂浪士切腹の4年後、宝永4年(1707年)に47歳で死去している。

 ちなみに、正月の初夢で縁起が良いとされる「一富士 二鷹 三茄子(いちふじ にたか さんなすび)」には諸説あるが、その一つに、一の富士は「曾我兄弟の仇討ち」(富士山の裾野)、二の鷹は「忠臣蔵」(主君浅野家の家紋が鷹の羽)、三の茄子は「鍵屋の辻の決闘」(伊賀の名産品が茄子)とされるものがあり、いずれも仇討ち(日本三大仇討ち)で、見事に本懐を遂げたことから大願成就の縁起物語として語られている。