2019年6月1日土曜日

大山の歴史年表


大山の歴史年表




時代 西 暦 年 号 事      柄
弥生 BC97年   山頂に社が祀られる(阿夫利神社社伝)
 
古墳 538年   百済から仏教が伝わる(552年の説もある)。
 
飛鳥 689年   良弁、漆部氏染谷太夫時忠の子として生まれる。
生後50日目に鷲にさらわれる(大山寺縁起)
699年   修験道の開祖、役の小角が伊豆に流される。
大山は修験道の道場となる。
奈良 716年 霊亀二 行基、「日向山・霊山寺」を開創。(日向薬師縁起)
718年 養老二 華厳妙端法師が日向山中に「雨降山・石雲寺」を開創。
752年 天平勝宝四 良弁、大山山頂で三十七日の不動秘法を修す。
工匠・手中明王太郎の祖、文観の一行が良弁に随行、以後大山に住む。
この年、東大寺の大仏が完成する。
755年 天平勝宝七 良弁が「雨降山・大山寺」を開創、第一世となる。
聖武上皇の勅願寺となり、相模・安房・上総三国を寺領として賜る。
761年 天平宝宇五 光増和尚、大山寺第二世となり、本尊・不動尊像を安ず。 現・大山寺の護摩所、不動尊がこれか(県重要文化財)。
773年 宝亀四 良弁大僧正が東大寺に於いて遷化する。
774年 宝亀五 工匠・手中明王太郎文観、没。
 
平安 806年 大同元 空海が唐から帰国し、真言宗をひらき、密教を広める。高野山に金剛峰寺を建てる。
820年 弘仁十一 空海、大山寺第三世(?)となり、真言宗となる。
879年 元慶三 大地震により大山山中で大火災が発生、伽藍・堂宇などの多くが焼失、崩壊する。
881年 元慶五 大山寺第四世・弁真和尚は、大山寺再興を願うも困難とし、山麓の子易に「一道山・地蔵院」を開きここに住む。 現在の「易往寺」なり。
884年 元慶八 安然和尚が大山寺を苦心の末に復興を果たし、天台宗となる。
890年 寛平二 大工棟梁第五代目・手中明王太郎が大山山頂の阿夫利神社を再建する。
927年 延長五 延喜式神名帳に「阿夫利神社」の記載あり。
1178年 治承二 曽我五郎・十郎の兄弟が、大山不動尊に父の仇討ちの願文を捧げる。
1184年 元暦元 源頼朝、大山寺に高部屋郷(糟屋郷)田・五町、畑・八町を寄進。また戦勝を祈願し太刀を奉納したことから、後の「納太刀」の風習の起源とも言われている。
鎌倉 1192年 建久三 源頼朝が征夷大将軍となる。
妻・政子の安産祈願のため大山寺、霊山寺(日向薬師)など十三社寺に神馬及び経を納める。
1194年 建久五 将軍・源頼朝が「霊山寺(日向薬師)」に参詣、従兵五十二騎。
1214年 建保二 鎌倉幕府から大山寺へ丸嶋郷免田・五町二反を寄進。
1219年 承久元 源実朝暗殺。 鎌倉幕府の執権・北条氏に権力が移るとともに、大山寺も徐々に衰退する。
1274年 文永十一 願行上人が大山寺の本尊の鉄造・不動明王像と二童子像を鎌倉・大楽寺において鋳造、これを納める。(国指定重要文化財)
山上の伽藍を再興し、大勧進(寄付募る寺)を設けるなど大山の繁栄に尽力、中興の祖と言われる。
室町

戦国
1334年 建武元 建武中興、大山寺衆徒、足利尊氏に従う。
1336年 延元元 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、初代足利将軍として室町幕府(足利幕府)を開く。
1347年 貞和三 室町幕府・足利尊氏により大山寺の堂舎を修築する。
1350年 観応元 大山寺別当の佐藤中務、足利尊氏に従い備中笠間で軍功をたてる。 この頃より大山寺の別当として八大坊が権力を持つようになる。
1352年 文和元 室町幕府の初代将軍・足利尊氏が大山寺に所領を寄進、武運長久を祈願する。
1364年 貞治三 初代鎌倉公方・足利基氏が天下泰平の祈願を大山寺に修す。以後、信心厚く寺料の寄進、堂舎の修築を援助する。
1400年 応永七 四代足利将軍・足利義持が大山寺・護摩堂造営料として波多野庄・蓑毛村、田原村(現・秦野市蓑毛/田原)を寄進する。
1412年 応永十九 四代足利将軍・足利義持、寺領として相模国糟屋庄内の高森郷(現・伊勢原市高森)を寄進する。
1422年 応永二十九 関東管領・足利持氏が、大山寺・石尊社領として武蔵国小山田保山崎郷今井村(現・町田市)を寄進する。
1432年 永享四 大地震のため大山寺の仁王像が損傷する。
1488年 長享二 大山寺・佐藤助太郎、武州・高見原合戦の軍功により足利成氏の感状(感謝状)を受ける。 この頃既に、大山においても僧兵らの武力集団化が行われていたと思われる。
1490年 延徳二 大山寺および坂本村(現・伊勢原市大山)で法度に背く者があり、上杉定正が足利将軍の禁制札を大山寺にかかげる。
1538年 天文七 この頃、現・伊勢原市内の各村が小田原衆(小田原・北条氏)の所領ととなる。 また、大山寺別当・八大坊領として北条氏康から高森郷(現・伊勢原市高森)百七十八貫四百六十七文を寄進される。
1561年 永禄四 小田原・北条氏康が山中城(?)の警備を大山寺に命ずる。
1569年 永禄十二 小田原・北条氏の重臣が甲斐の武田氏との合戦の戦勝祈願を大山寺にする。
1586年 天正十四 小田原・北条氏直、大山寺の条規を改定し、別当・八大坊に高森郷の代官職を安堵する。
1589年 天正十七 豊臣秀吉の小田原攻めにあたり、小田原・北条氏側に味方した大山寺の衆徒が北条氏の山中城を警護し、豊臣側と戦う。
1590年 天正十八 山中城が落城すると、大山寺の衆徒は帰山、豊臣秀吉は大山寺衆徒の鎮静と豊臣軍の乱暴を禁ずるため、大山、日向へ乱暴狼藉を禁止する禁止札を立てる。
江戸 1603年 慶長八 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、初代将軍として江戸幕府(徳川幕府)を開く。
1605年 慶長十 徳川幕府、初代将軍・徳川家康により大山寺に対して「慶長の大改革(山門改革)」が行われる。
平塚八幡村・成事智院の実雄法印を初代別当として、大山再興のために諸法度を定める。(幕府の山門改革により、中世以来大山山内にいた修験者らは、一切の既得権を剥奪され、その多くが山を下り麓の坂本村や蓑毛村に住み着くと、やがて御師となり精力的に各地を回って大山不動尊の布教活動を行い、その後の大山信仰の普及と拡大に貢献したと言われる。)
大山寺の諸堂伽藍を再建する。
1608年 慶長十三 実雄法印に碩学領として徳川家康より小蓑毛郷五十七石を賜る。
1609年 慶長十四 大山寺領として、坂本村と子易村合わせて百石を賜る。 また別当・八大坊、他十一坊を置き、合わせて十二坊と称した。 大山寺の山内諸法度を整え、関東五ケ寺の一つに加えられる。 別当・八大坊下屋敷を福永町(現・阿夫利神社社務局)に置く。
1638年 寛永十五 幕府の命により寺社奉行・安藤重長、松平出雲守らによる大山寺造営のための堂社の現況調査が行われる。
1639年 寛永十六 幕府より大山寺造営のために、金一万両を賜わる。
1640年 寛永十七 3代将軍・徳川家光により大山寺再興「寛永の大修理」が行われる。
春日局、将軍・家光の子授けを大山寺に祈願。
1641年 寛永十八 大山寺、阿夫利神社・石尊宮の造営完成で入仏式が行われる。 将軍・家光より灯籠、梵鐘および額などが寄進される。
1642年 寛永十九 将軍・家光に世継ぎ誕生。 竹千代君代参として知足院法印・栄増が大山寺を参拝する。
1643年 寛永二十 将軍・家光の代参として春日局参詣、「総費用十八万両、一山の供僧に祝儀あり」。
1666年 寛文六 大山に大洪水があり、大山川に沿い多くの土地が崩壊、とくに被害の大きかった坂本村の一部が、麓の上子易村(現・伊勢原市子易)への移転を幕府に願い出る。
幕府より上子易村・三千百七十三坪の換地が許可され、住民移転により後に、門前町の新町発祥となる。
1688年 元禄元 この頃より庶民の間に大山参りの講社が結成されるようになる。なかでも江戸・日本橋の「お花講」、下谷の「お供物講」、芝の「御太刀講」は江戸三大大山講とよばれ、現在でも毎年夏山期間の(7月27日~8月17日)の初日(7月27日)下社から山頂へ至る参道(本坂)の入口にある「登拝門」の扉を開ける「開門の儀式」は、日本橋の「お花講」(元禄元に結成)によって行われている。
1693年 元禄六 大山寺大堂改築のお礼に大山寺・八大坊が将軍・綱吉に謁見する。
1702年 元禄十五 大山・御師と子易村民の間で大山参詣者の宿泊をめぐり争いとなる。(麓にある子易村が大山参詣人を宿泊させ、おまけに厄除けの牛王札を売る者まであったことから、大山・御師が幕府に申し出てこのような行為を止めさせた。 当時、大山参詣者は大山門前町の御師の宿坊に泊まることが決められていて、他の宿でこれらの人々を泊める行為は禁止されていた。今でいう営業妨害行為で訴えたものであろう。
ただし、当時は夏山の限られた期間だけ山頂への登拝が許されていたことから、関東各地から大山へ押し寄せる参拝者で各地の大山道の旅宿や茶店は、溢れるばかりの人々で混み合った。参詣者の大山での定宿は門前町の御師の宿坊と決められていたが、そこであぶれた者は門前町手前の子易や石倉などの民家に泊まることもあった。この他にも大山・御師と、この時期に一儲けしようと考える麓の村民、民家や宿場などの間で宿泊をめぐり、しばしば争いが起きている。)
1703年 元禄十六 南関東大震災(元禄十六の大震災)で堂舎大破損、幕府より黄金二千両を賜わる。大山山頂・本宮ほか諸堂再建する。
1707年 宝永四 富士山・宝永の大噴火、大山にも火山灰が多く積もる。
1719年 享保四 大山山頂・阿夫利神社石尊本宮が放火により焼失。この時の放火犯・武州川口村鍋屋勘兵衛は、寺山村芝野(現・秦野市寺山)にて斬首される。
1720年 享保五 幕府・寺社奉行より二百両を賜わり、前年焼失した阿夫利神社石尊本宮を再建する。
1731年 享保十六 大山山頂の本宮など、野火により焼失。翌年再建する。
1771年 明和八 大山山頂の神社など、野火により焼失。幕府より百両賜り、1778年再建する。
1774年 安永三 正月二十九日、門前町の新町から出火し、烈風のため門前町(大山町)の大半を焼く。
1791年 寛政三 大山(大山川)の大洪水により多くの家屋が流失。 洪水を事前に予想し、村内に警告して歩く人がいて、そのために住人らは山に逃げ、一人の被害者も出なかったと伝えられている。
1844年 天保十五 現在の「三の鳥居(大山門前町入口)」に青銅の鳥居が奉納される。
1853年 嘉永六 「日向越え(現・大山日向薬師登山道)」に、地蔵尊石像(勝五郎地蔵)が建てられる。(現在も大山阿夫利神社下社から日向へ向かう登山道、「日向越え」の九十九曲りにさしかかる手前に立つ。)
1854年 安政元 大山(全山)に大紛争がおき、第十五世・照道法印が八大坊を退山する。
「安政の大火」が起こり大山全山が焼失する。
1855年 安政二 本尊・不動尊像三体の火災後の修理を行う。
1857年 安政四 八大坊別当・覚昶が願書を幕府に提出し、諸堂再建の援助を乞う。
1858年 安政五 幕府・寺社奉行より再建のための御手当、銀五十枚を賜わる。
1860年 万延元 大山・諸堂再建基金勧財のため、相模国、江戸市中に於いて寄金(寄付金)を集める許可文書を 幕府より得る。
1865年 慶応元 大山寺別当・八大坊十七世に、江戸市ヶ谷八幡宮より応住法印が入りて別当となる。
明治 1868年 明治元 明治維新により、明治新政府より神仏判然令が出されると、平安時代以来、千年以上にわたり石尊大権現を祀る山岳寺院を中心としたこれまでの神仏混淆(神仏習合)から、神仏分離政策による廃仏毀釈運動の波が大山にも押し寄せた。(山頂の本社には石尊大権現に代わり大山祇神、奥社には大天狗に代わり大雷神、前社には小天狗に代わり高オカミの神が祀られることになる。)
社僧の禁止を受け、大山寺別当十八世・実乗は、弟子の教順を還俗させ、大山勇と改名し阿夫利神社の祠官につかせる。 
1869年 明治二 版籍奉還により寺社の知行地(ちぎょうち)は、新政府に返還される。
大山寺不動堂は破壊され、その跡に新たに阿夫利神社・下社拝殿が建てられる。
破却された大山寺は、廃寺となったが破壊から免れたわずかな仏像・仏具などを來迎院跡(現在の大山寺)に移し、宝珠山明王寺として再建する。
1871年 明治四 阿夫利神社の祠官となっていた大山勇が、大山を去る。
1872年 明治五 旧前不動堂跡の追分社(八意思兼社)に大鳥居建立。 大山寺別当十八世・実乗が、大山を去る。
1873年 明治六 阿夫利神社・下社拝殿が完成。 権田直助が阿夫利神社祠官に任ぜられると、御師の呼称を先導師と改める。

1874年 明治七 「三の鳥居」(門前町入口・新町)が再建される。
1875年 明治八 阿夫利神社・本社(山頂)が火災で炎上する。
1876年 明治九 明王寺・不動堂(現・大山寺不動堂)建立工事が開始される。
1877年 明治十 阿夫利神社・本社(山頂)が再建される。
この年の先導師の数は、大山に112戸、蓑毛に9戸、大山講信者数は約百万戸と言われている。
1878年 明治十一 奈良・春日大社伝承の倭舞、巫女舞を阿夫利神社・祭典で奉奏される。
1885年 明治十八 明王寺・不動堂(現在の大山寺不動堂)の完成、落慶入仏式法要が行われる。(多くの信者の浄財を以って再建される。)
1887年 明治二十 東海道線・平塚駅が開業。(明治になり鉄道が敷設されると、徒歩による大山詣は次第に廃れ、各地の大山道も利用されなくなり、沿道の旅宿や茶店の多くが廃業した。
東方からの参詣者は平塚駅に下車し、乗合馬車や人力車、或いは徒歩で平塚街道を伊勢原・大山へと向かった。
西方からの参詣者は、多くが当時の東海道線であった御殿場線・松田駅に下車し、大山に向かった。
尚、平塚からの乗合馬車や人力車の終点は、当時は子易・比比多神社(子易明神)前までで、ここから先、大山門前町方面へは石段のある狭い坂道となっており、参詣客はここから徒歩や駕籠などで上って行った。
神社(子易明神)の周辺には江戸時代からの旅籠屋が何軒かあったと言う。)
権田直助死去、享年七十九歳。
1889年 明治二十二 市町村制施行で、大山町が生まれる。334戸、1867人。
1904年 明治三十七 この頃、門前町の先導師数が82戸に減る。(新町8、別所町18、福永町20、開山町18、稲荷町13、坂本町5)
1910年 明治四十三 阿夫利神社下社の拝殿を竣工。
大正 1914年 大正三 東京土木建築有志によって宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、明王寺境内(現・大山寺)に再建される。 (寛政7年(1795)八大坊広徳院の勧進で建立されたが、明治初年の廃仏毀釈による堂舎の打ち壊しの際に解体され、その後40年以上もの間、野晒し状態にあった。)
1915年 大正四 慈雲山・観音寺と宝珠山・明王寺を合併して雨降山・大山寺の旧称として復興される。
1916年 大正五 子易木戸(現・子易明神前)より新町・「三の鳥居」まで石段を取り除き、車道とする。
1920年 大正九 乗合自動車(バス)が、子易明神前まで開通する。
1921年 大正十 「三の鳥居」が江戸消防・「せ組」により奉納される。
1923年 大正十二 関東大震災の発生により、大山山内の山津波で、家屋70戸が流失、死者1名。
1925年 大正十四 乗合自動車(バス)が、「三の鳥居」(新町)まで開通。
昭和 1927年 昭和二 小田急線・伊勢原駅が開通。
1931年 昭和六 大山ケーブルカー(大山鋼索鉄道)が開通。(追分 - 不動尊 - 下社間 0.7km が開業)
1937年 昭和十二 大山ケーブルカー(大山鋼索鉄道)の下社から山頂までの延長計画が取消される。(かつて、下社駅から山頂までの延長計画が存在したが、指定期限までに工事が竣工出来なかったため免許の取消となったと言われている。)
1944年 昭和十九 大山ケーブルカー(大山鋼索鉄道)が不要不急線として廃止される。(太平洋戦争中の資材不足により、設備の一部が金属材として軍部に供出される。)
学童疎開が始まる。
1945年 昭和二十 5月、疎開受け入れ先の旅館に米軍爆撃機の爆弾が落ち、疎開児童1人が死亡。 8月、太平洋戦争終戦。
(現在、阿夫利神社下社拝殿横の山頂への登山口・「登拝門」の手前に「川崎市学童疎開四十周年記念像」が建てられている。)
1950年 昭和二十五 「大山観光」が設立。
1951年 昭和二十六 「大山観光」に地方鉄道敷設(ケーブルカー設置)の認可がおりる。
1953年 昭和二十八 「大山観光」の社名を「大山観光電鉄」に変更する。
1954年 昭和二十九 伊勢原町(現・伊勢原市)が発足する。(2町4ヶ村が合併、人口26,514人、4,564戸)。
1960年 昭和三十五 丹沢大山県立公園に指定される。
1961年 昭和三十六 大山県道の改修・造成工事が始まる。
1965年 昭和四十 丹沢大山国定公園に指定される。
大山ケーブルカー(大山観光電鉄)、追分から下社までの 0.8kmが再開業する。
1967年 昭和四十二 大山県道611号(大山板戸線)の改修・造成工事により、バスが現在の「大山ケーブル・バス停」(終点)まで延長される。
1977年 昭和五十二 阿夫利神社・下社の造営竣工。
1979年 昭和五十四 大山寺の本尊、昭和の大修理が行われる。
1986年 昭和六十一 「三の鳥居」、現在の道路幅に合わせ改修工事が行われる。
平成 1990年 平成二 大山・福永町の「加寿美橋」架替工事完成。
1991年 平成三 県道611号(大山板戸線)の大山バイパス整備工事着工。
大山・愛宕町の「愛宕橋」架替工事完成。
日向薬師周辺と大山が「かながわの探鳥50選」に入選。
1992年 平成四 大山・開山町の「阿夫利橋」架替工事完成。
1993年 平成五 日陰道(日向薬師)/宿坊街(大山)が「かながわの古道五十選」に入選。
1995年 平成七 「渋田川河畔の芝桜」、「あやめの里の花菖蒲」、「日向薬師周辺の彼岸花」が 「かながわの花の名所100選」に入選。
「日向薬師・宝城坊本堂(薬師堂)」が国指定重要文化財に指定 。
2010年 平成二十二 日向薬師の本堂(薬師堂)で「平成の大修理」が行われる。(建物の老朽化により平成22年11月~平成28年9月30日までの約7年間にわたり、解体、修復工事が行われる。 記録によると、過去、室町時代の康暦2年(1380)の630年前と、江戸時代前期の万治3年(1660年)の350年前の2度、今回と同様の大修理が行われている。)
2015年 平成二十七 大山ケーブルカー(大山観光電鉄)のリニューアルが行われる。(戦後の再開業以来、約50年間使用されてきた車両やレール、枕木、電気設備等の大規模更新工事を実施。この間約4ヶ月半の長期運休が行われた。)
令和 2019年 令和元 平成31年5月、年号が平成から令和に改元。