2015年8月16日日曜日

狐の剃刀

伊勢原市・日向地区 2015.08.16
八月も、月遅れのお盆の頃になると、ヒガンバナ科の「キツネノカミソリ(狐の剃刀)」が咲き始める。

 雑木林やその周辺の草地など、やや日当たりのよい北斜面に自生していることが多く、九月のお彼岸の頃に、真っ赤な花を咲かせる「彼岸花」と同じように、地面からいきなり花茎を伸ばし、花を咲かせる。

 葉は、早春から初夏にかけて地際から帯状の細長い葉をたくさん茂らせるが、花が咲く前になると一旦枯れて、草木の痕跡すら無くなってしまう。

 名前の由来については、花の色がきつね(アカギツネ:ホンドギツネ)の毛を連想させるとか、ある日突然に花が咲き始める様が、まるでキツネに化かされたかのようだからとか、さらに細長い葉の形がカミソリに見立てられたものなどの諸説が語られている。

 この他にも、彼岸花(ヒガンバナ)を「狐花(キツネバナ)」や「狐の松明(キツネノタイマツ)」、烏瓜(カラスウリ)を「狐の枕(キツネノマクラ)」、宝鐸草(ホウチャクソウ)を「狐の提灯(キツネノチョウチン)」など、きつねに関係する名の山野草は少なくない。



 かつて、人が住む田んぼや畑の広がる里山の雑木林などを住み家とし、夜行性で時々見かけることはあるものの、あるときは人を化かし、悪戯をするかと思えば、お稲荷さんのお使いとして信仰されたり、古くから日本人と密接な関係を持っていた不可思議な動物。
 
 「狐火(きつねび)」、「狐の嫁入り」、「狐日和(きつねびより)」など、不思議な出来事や理解不能な自然現象は、きっときつねの仕業なのだと考えられた時代。 全国各地には、狐に纏わる伝説、伝承は少なくない。「狐の嫁入り」に関するものも数多く伝えられている。

 1990年に公開された黒澤明監督の「夢」という題名の映画で、全8話からなるオムニバス形式の作品の第1話「日照り雨」に、狐の嫁入りが登場する。

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 映画は、 「こんな夢を見た」で始まる。

 天気が良いのに突然の雨、「日照り雨」である。 俗にいう天気雨で、「日和雨(ひよりあめ)」、「狐日和(きつねびより)」、「狐の嫁入り」などとも言った。
 母親が、急いで庭先の干し物を家の中に取り込みながら、門から外の様子を見ていた少年に「出て行くんじゃありませんよ。 日が差しているのに雨が降る、こんな日は、きっと狐の嫁入りがあるのよ。 狐はそれを見られるのをとても嫌がるの。 見たりすると怖いことになりますよ!」と忠告すると家の中へ。

 だが、少年は誘われるかのように森の奥へと入っていく。
やがて深い霧の中から、行列を先導するかのように流れる錫杖の音を思わせる鉦と笛、小太鼓の音、そして静々と進む狐の行列が現れる。「狐の嫁入り」である。

 少年は、木立の間から行列を覗き見ようとするが、狐たちに悟られてしまう。 少年は急いで家に帰るが、門の前で待っていた母親は、怖い顔で「今、狐の使いがこれを持って来た。」といって、短刀を少年に渡す。 腹を切ってお詫びしろという事だろう。 母親は「本当に死ぬ気になって謝るのよ!」と言って、門を閉ざしてしまう。

 少年は、一人、雨上がりのお花畑の向こうにかかる大きな虹の彼方、その下の狐たちが住むという山奥を目指すところで夢は終わる。 幼い頃、黒澤少年が見た夢である。

 この映画が公開されたときは、賛否両論の批評がされ話題にもなったが、「狐の嫁入り」の行列の場面や、第8話「水車のある村」の場面構成、演出などは、さすが黒澤映画だなと思わせた。

 「水車のある村」で老人役の笠智衆さんの演技を見ていると、寡黙だった亡き父をいつも思い出させてくれた。 小津安二郎監督の映画「東京物語」以来、大好きな名優さんでした。

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伊勢原市・日向地区 2015.08.16
ところで、日本人はいつごろから「狐」や「狸」に化かされなくなったのだろうか。

 団塊の世代と言われる人々が、まだ子供だった頃、私の育った四国の田舎でも、きつねやたぬきに化かされたという話は、よく聞かされたものである。

 かつては、人と自然が今よりもっと密接な関係にあった。、あるときは日々の糧を自然からの恵ぐみとしていただき、あるときは人々に驚異をもたらす存在でもあった。
 人々の生活する周囲には、人と自然が混在する領域があり、さらにその外側(奥)には八百万の神々や魑魅魍魎(ちみもうりょう)の入混じる混沌とした世界があった。

 山や川、海、森や木、岩、風、雲、雨、雷、火、森羅万象(しんらばんしょう)あらゆる物に神がやどると信じていた人々は、自然への畏敬の念をいだき、日々生ずる事象(自然からの恵みや、災い)は、すべて神々や魑魅魍魎がもたらした物と考えた。

 そして、これら人の目に見えない世界からの伝達役のひとつにきつねが選ばれたのかもしれない。
かつては、人間と自然が混在する領域に生息し、あるときは神の使者として豊かさをもたらし、あるときは災いをもたらし、悪戯をするなど身近な存在であった。
 
 では、人はいつの頃から「狐」や「狸」に化かされなくなったのだろうか。

 戦後の貧しい時代を経て、1960年代(昭和30年代)からの高度経済成長期、地方から多くの人々が豊かさを求め都会へと向った。 豊かさの象徴を物に求める経済至上主義によって、とり残された自然と人との関係が徐々に希薄になってしまった結果、きつねもいつしか人間の前から姿を消してしまったのだろうか。

 1994年、アニメ制作会社の「スタジオジブリ」が製作した、高畑勲監督の「平成狸合戦ぽんぽこ」というアニメ映画が公開された。 子供向けの映画であろうが、大人にも考えさせられる内容で、時代設定は、まさに高度成長期の1960年代。 東京都の西部の豊かな自然が残る多摩丘陵に、巨大ニュータウンが建設された頃のお話である。
 余談ではあるが、映画の中には、四国の阿波国(徳島県)「阿波狸合戦」で有名な金長狸や、伊予国(愛媛県)の「八百八狸(はっぴゃくやだぬき)」伝説の刑部狸(ぎょうぶだぬき)、四国の狸の総大将で、化ける技では日本一と称された讃岐国(香川県)屋島の太三郎狸なども出てくる。

 アニメ映画では、タヌキたちが主人公であったが、キツネに置き換えて想像することもできる。
かつて人間と自然が混在していた場所は、造成地となり宅地開発され、ニュータウンが造られると、自然への畏怖を忘れた人間たちが大量に移り住み、やがてタヌキやキツネたちの存在も忘れ去られていく。 そして、そこでは人間が人間に化かされる暮らしが日々繰り広げられていく。

 日本人がきつねやたぬきに化かされていた時代は、経済的には貧しくとも、想像力と心豊かな時代だったのかもしれない。





 狐(きつね)、狐火(きつねび)は、俳句では冬の季語となっている。


「 母と子のトランプ狐啼く夜なり 」        (橋本多佳子)