2015年3月31日火曜日

心みじかき春の山風

伊勢原・ふじやま公園 (2015.03.30)
今年もまた、花(桜)の季節となった。

 「  桜は、五分咲きがいい?、それとも満開?、いやいや散り際の潔い(いさぎよい)ところだよ!・・・ 」、などと1000年以上もの間、一つの花に対して是ほどまでに大騒ぎする民族も他にないであろう。

 日本人は、桜に恋し、最高の褒め言葉として比喩し、人生を重ね合わせ、自らもこの花のようでありたいと願う。 このように異常とも思える日本人の桜の花に対する思いとは、いったいどこから生まれてきたのだろうか。

 そもそもサクラの原産地はヒマラヤ近郊と考えられており、現在、ヨーロッパ・西シベリア・日本・中国・米国・カナダなど、主に北半球の温帯に広範囲に自生分布している。

 欧米など世界的には、桜は果実・サクランボ(チェリー)として食用に利用されることも多く、品種改良されてきたのに対し、日本では桜の花自体を観賞の対象とし、古くから多くの園芸品種が作られ、固有種・交配種を含め300~600種以上(正確なところはわからない)もの品種があると言われている。



秦野・弘法山公園 (2015.03.30)
では、日本人は何時の頃から桜を愛でるようになったのだろうか。

 京都の桜の名所で知られる東山の清水寺(きよみずでら)の隣りにある「地主(じしゅ)神社」の境内に、一樹に八重と一重の花を持つという「地主桜」がある。 この桜が後に日本人の桜好きに大きな影響を与えたとも言われている。

 都が平安京(京都)に遷都されて間もない平安時代の初め、弘仁2年(811年)の春、時の嵯峨天皇は「行幸(ぎょうこう)」の帰り道、ふと地主神社の境内に咲いている桜を見て、乗っていた牛車を停めさせた。
 「あ~、桜の花もいいものだな ・・・・・ !」と、思いつつ帰ろうと牛車を進めたが、先ほど見た桜の花が気になってしかたがなく、その美しさに二度、三度と牛車を引き返させては、見事に咲いた桜を眺めたという故事から、後に「御車(みくるま)返しの桜」とも呼ばれるようになる。

 嵯峨天皇は以後、毎年、神社に命じ桜の枝を宮中に献上させるようになったとも、自らも宮中の庭に桜を植えさせたとも伝えられている。 平安時代の史書『日本後紀』には、嵯峨天皇が、翌年の弘仁3年(812年)に、宮中の神泉苑において「花宴の節(せち)」を催したとの記述があり、これが公式の記録に残る最も古い桜の花宴、すなわち「桜の花見」とされている。

 奈良時代より中国「唐」の文化の影響もあり、花宴と言えば「梅の花」を指すことが一般的であったが、これがきっかけになったのか、平安貴族の間にも庭に桜を植えて、桜の花を楽しむことが広まったと言われている。 この頃の桜は、野山に自生したもの(ヤマザクラの類)を庭に移植したものと言われ、平安時代に書かれた庭づくりのマニュアル本とも言われる『作庭記』にも、「庭には花(桜)の木を植えるべし」と記されている。 その主な供給地となっていたのが、桜の名所で知られる奈良県・吉野地方と言われている。

 吉野山は、7世紀(飛鳥時代)の頃、山岳修験道の開祖・役行者(役小角)が、桜の木で修験道の本尊・蔵王権現を彫ったと伝えられ、以降、蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進する風習により、平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになったとも言われている。
 また、一説には、7世紀末、大海人王子(のちの天武天皇)が、吉野の寒中で、庭の桜が満開の夢を見て、これが動機となって天下を定めた(「壬申の乱」により大友皇子を倒し、天皇に即位した)ので、桜は霊木であり神木であるとされ、桜の愛護が始まったとも伝えられる。



秦野・弘法山公園 (2015.03.30)
鎌倉・室町時代になり、京の都を中心とした平安貴族の文化が武家社会にも受け継がれると、花見の風習も武士階級へと広がり、地方でも花見の宴が催されるようになる。

 戦国乱世を制し天下を統一した豊臣秀吉は、その最晩年(62歳)、京都の南東部、伏見の里にある醍醐寺・三宝院裏の山麓に奈良や滋賀などから約700本の桜を集め植林、慶長3年(1598)旧暦3月15日(4月20日)、秀吉の正室、側室や諸大名の女房・女中衆約1300人を召し従えた盛大な花見の宴・「醍醐の花見」を催した。 

 さらに、江戸時代になり、庶民の間にも花見の風習が広まると、桜の品種改良も盛んに行われるようになり、なかでも江戸末期に出現したソメイヨシノ(染井吉野)は、若葉の出る前に花が咲き、花弁が比較的大きく、花の数も多く満開時には樹木全体を覆うように咲くことから、明治以降、日本全国各地に広まり、サクラの中で最も多く植えられた品種となった。

 ただ、明治維新後の一時期、西洋文化が一気に入ってくると、大名屋敷や庭園、武家屋敷などが次々に取り壊され、その跡に西洋式の建物が造られると、桜の木も焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕した。
 これに危機感を持った江戸・駒込の植木職人らが自宅の畑に84種類にも及ぶ桜を移植し保存、1886年には荒川堤の桜並木造成に協力すると、20年以上に渡り78種類、3200本もの桜を植え続けた結果、1910年には花見の新名所(荒川堤の五色桜)の桜並木として国内外から花見客が殺到するほどになり、この年には皇族も訪問するほど大反響を呼び起こした。

 78種が植栽された荒川の桜は各地の研究施設にも移植されて品種の保存が行なわれ、全国へと広がった。 さらに明治45年(1912)には、日米友好の証として荒川の桜の苗木(荒川の桜を穂木とした苗木)12品種約3000本がワシントンに贈られポトマック川畔に植栽された。

 しかし荒川堤の桜は、太平洋戦争で燃料として切り倒されたり、堤防工事や公害・病虫害などにより衰退してしまったが、昭和56年(1981)にワシントンから35種約3000本の桜の苗が約80年ぶりに里帰り、現在、足立区ではかつての桜並木を再現する取り組みが地元の人たちの協力のもと進められているという。



秦野・中央運動公園 (2015.03.31)
現在、メディアなどで単に「桜」と言うと、全国的に桜の中でも極端に多く植えられている品種の「ソメイヨシノ」を指すことが多く、ちなみに気象庁が毎年春におこなう桜の開花宣言(開花日)は、各地方気象台の定められた「ソメイヨシノ」の標準木の開花状況(5~6輪開いた状態)を基準としている。
また、満開とは80%以上が咲いた状態を言うらしい。

 江戸時代後期、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木職人が「エドヒガン」と「オオシマザクラ」の交配したものを品種改良し、「染井吉野(ソメイヨシノ)」と名付けて売り出したのが全国に広まったいうのがこれまでの定説になっている。

 全国にある「ソメイヨシノ」は、同じ遺伝子をもつクローンであるとされることから、気象条件が同じであれば一斉に開花することが知られている。 それは日本でも古くから伝わる「接木(つぎき)」という古典的な手法で容易に増やすことができた。

 最新の遺伝子分析から、「エドヒガン」47%、「オオシマザクラ」37%、「ヤマザクラ」11%、その他5%であることが判明、この結果から推測すると、「エドヒガン」の親と「オオシマザクラ」と「ヤマザクラ」の交雑種を親としたのもと考えられる。

 その特徴は、成長力が旺盛で、苗木を植えてから花をつけるまでの期間が早く、花見ができるようになるまで短期間で育てることができ、しかも若葉を付ける前にやや大きめの花弁が枝を覆うようにして咲き、淡いピンク色が開花から一週間ほどで一斉に散り始めるなど、淑やかで儚い様が多くの日本人の心情に合っていたことからも、花見の名所を作る目的の人々にとっては都合のいい品種だったと考えられる。 これらのことから、太平洋戦後の復興期に桜の名所として全国各地に植えられた桜の多くが「染井吉野(ソメイヨシノ)」であったこともうなずける。

 ただ、成長が早い分、樹齢も60~70年と桜としては短いのではないか言われ、今から10年ほど前(平成15年を過ぎた頃)から、全国の桜の名所が一斉に寿命を迎え、衰弱して枯れてしまのではないかとの憶測がテレビ・新聞などのメディアで話題になったことがある。
 実際、樹の寿命はそれらの置かれた環境に大きく左右されることから、河川の土手や公園、学校の校庭、街路樹など人と接することの多いい場所での環境は、桜の樹にとって必ずしも良い環境とは言えない。

 車の排気ガス、踏み固められた根元の土壌、さらに密集した植樹による日光不足、枝や根、幹などを傷つけられたり等々、桜の木にとっては必ずしも良い環境とは言えない。
 昔から「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という言われているように、桜の樹は病気に弱く、折れた枝や、傷ついた幹や根から腐りやすいことから、これらの環境が樹勢を弱らせ、樹齢短命化を加速させているとも言える。
 実際、桜の名所で知られる青森県「弘前城公園」には、樹齢が100年以上のソメイヨシノの古木があり、りんご栽培のノウハウを生かした剪定方法や根元の土壌の管理などを適切に行えば、毎年見事に花を咲かせてくれることを証明している。



和歌や俳句の世界では、単に「花」と言えば桜の花を指し、季語は「春」である。


・ 平安時代の歌人、在原業平(ありはらのなりひら)は言う。

「 世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし 」  (在原業平)
(世の中に、いっそ桜の花などというものがなかったら、どんなにか春をのどかな気持ちで過ごせるだろうに! 心がかき乱され、落ち着いていられないのは、きっとあの桜の花のせいよ!)


・ また、紀 友則 (きのとものり)は言う。

「 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 」  (紀 友則)
(こんなに日の光がのどかに射している春の日に、桜の花は、どうして落ち着きもなく散り急いでるのだろう。)


・ また、平安時代を代表する女流歌人で絶世の美女と言われた小野 小町(おののこまち)は、年々老いていくわが身を散り行く桜の花になぞらえて、

「 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 」   (小野 小町)
(桜の花の色はすっかりあせてしまったことよ、長雨がふっていた間に。 わたしの美しかった姿かたちもおとろえてしまった。 むなしく世をすごし、もの思いにふけっていた間に。)


・ 恋する女性への思いを桜の花に例えた歌もある。

「 春霞 たなびく山の桜花 見れどもあかぬ 君にもあるかな 」  (紀 友則)
(春霞がたなびく山の桜花を見て飽きないように、いくらあなたを見ていても飽きることはありません。)


「 山桜 霞の間より ほのかにも 見てし人こそ 恋しかりけれ 」   (紀 貫之)
(山桜が霞の間からわずかに覗いた時のように、ほのかに見えたあなたのことを恋しく思っています。)


 さらに鎌倉時代になり、武士の時代となると、平安貴族と異なり桜に対するイメージが、自らの人生観・死生観を潔く散り行く桜花にダブらせてみる歌が多くなってくる。


・ 天皇を守護する「北面武士」から出家し、僧侶となり全国を旅し、歌人としても知られる「西行法師」は、言う。

「 願わくは 花のもとにて春死なん その如月(きさらぎ)の 望月のころ 」   (西 行)
(できる事ならば、その二月十五日の満月のころ、爛漫と咲く桜の花のもとで死にたいものである。)

 西行の歌集「山家集(さんかしゅう)」におさめられている有名な句で、62、3歳のころの作とされる。 「如月(きさらぎ)」は二月の和名。 旧暦の二月は仲春、桜の季節であり、また二月の望(もち)の日は釈迦(しゃか)入滅の日でもある。
 できる事ならば、その二月十五日の満月のころ、爛漫と咲く桜の花のもとで死にたいものであると西行は願った。

 西行が、河内国の葛城(かつらぎ)山西麓(現在の大阪府南河内郡河南町)にある「弘川寺」で七十三歳の生涯を終えたのは、建久元年(1190)二月十六日(旧暦)と言われ、願い通り絢爛たる桜の花の満開のころだったかも知れない。


・ また、戦国時代、織田信長、豊臣秀吉に仕え、名将として知られた武将、蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、

「 かぎりあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風 」  (蒲生 氏郷)
(花の命には限りがあるのだから、風が吹かなくてもいずれは散り行くものを、なぜにそんなにせっかちなのか、春の山風よ。)

 秀吉の天下平定後、関東・小田原の北条氏攻略の戦功により、陸奥国・会津四十二万石(後に九十二万石)の大名になったが、文禄四年(1595)二月七日、四十歳の若さでこの世を去った。
この句は、氏郷の辞世の歌とされているもの。

 この時の花は、おそらく桜の花であろうか、限りある命とは、人の命の意味も当然含まれていると思われる。 人の命を花の命の儚さになぞらえ、戦国の世に戦(いくさ)に明け暮れ、駆け足で走り抜けていった己の人生を重ねていたのかもしれない。

伊勢原・三春の滝桜 (2015.03.30)
・ 最後に、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が、故郷の三重・伊賀上野に久しぶりに帰郷した折、かつて仕えていた旧藩主の下屋敷で催された花見の宴に招かれ詠んだとされる句は、

「 さまざまの事おもひ出す 桜かな 」    (松尾芭蕉)

 懐かしい故郷の思い出、これまで歩んできた人生の苦しみ、悲しみや喜び、出会いと別れ、いろいろな出来事が走馬灯のように思い出されたのかも知れない。 簡潔・平凡であるがゆえに、すべての人が同調出来る思いがこの句にはある。





 寒かった冬も終り、ようやく春めいてきた山の木々にも若葉が戻る頃、今年も桜の花を見ることが出来る喜びと感謝、あと何回、この桜の季節を迎えることが出来るのだろうか。

 年に一度、この時期、日本列島のあちこちで満開の桜の花が見られるようになる。

ああ、日本人に生まれてよかったと。


「 世の中は 桜の花に なりにけり 」   (良 寛)