2014年4月8日火曜日

深山に一条の花明り

大山桜 2014.04.08
「花明り(はなあかり)」という言葉がある。

 本来は、夜に満開の桜のまわりがほのかに明るく感じる様をあらわしたもので、俳句では春の季語にもなっている。

 実際に、桜の花びらから光が発せられているわけではないのだろうが、辺りが夕闇に沈むなかで、満開の桜の木のそこだけが、 白くぼんやりとした光が残っているかのように感じる様子を言ったものであろうが、桜の花に対する日本人の美意識とか心情を表す一例とも言えよう。

 俳句では、「花」といえば桜の花をさし、他にも、花見、花盛り、花の雲、花月夜、花片(はなびら)、花筏(はないかだ)、花篝(はなかがり)、花守(はなもり)、花筵(はなむしろ)、花の雨・・・等々。


 日本人はいつの頃から「桜」をもって花の代名詞のように使ってきたのだろうか。

 奈良時代に編集され、日本で現存する最古の和歌集とされている「万葉集」には、梅の歌118首に対し桜の歌は44首に過ぎなかった。

 この時代の日本は、先の飛鳥時代に続き中国からの政治体制・文化を積極的に取り入れていった時代でもあり、和歌などで単に「花」といえば「梅の花」をさしていた。 ただ、少数とはいえ桜の花を詠んだ和歌もあったことは興味深い点であろう。

大山桜 2014.04.08
平安時代に入ると、それまでの中国の影響が強かった奈良時代の「文化(唐風文化)」に対して、後に「国風(和風・倭風)文化」と呼ばれる我が国独自の文化を育(はぐく)む風潮が強くなるにつれて、徐々に桜の人気が高まり、このころより「花」とは「桜の花」を指すようになったともいわれる。

 平安時代後期から台頭してきた武家により、鎌倉幕府が成立されるとそれまでの貴族文化が、武家文化へと継承される中で、国風文化も受け継がれていったのだろうか。

 このころ活躍した人に西行(武家の家に生まれ後に出家し僧侶となる・歌人としても知られる。)がいる。

 彼の生き方は、当時の支配階級の人々はもとより、後の世代にもきわめて大きく影響をあたえ、江戸時代の俳人、松尾芭蕉もまた、西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)3月20日、西行の足跡を訪ねるようにして「奥の細道」の旅に出たという。

 出家後は、心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばし諸国を巡る漂泊の旅に出て多くの歌を残した。

晩年に詠んだとされる歌に、

  「ねがはくは 花のもとにて(したにて) 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」

というのがある。

 ここで言う花とはもちろん、桜の花のことであり、その歌の願い通り、陰暦2月16日、桜が咲いている釈尊涅槃(しゃくそんねはん)の日に入寂したともいわれている。

 また、室町時代の臨済宗の高僧・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、 「花は桜木、 人は武士、 柱は檜、 魚は鯛、 小袖はもみじ、 花はみよしの(吉野山の桜のこと)」という言葉を残している。

 当時の良いものランキングのようなもので、花といえば桜、人といえば武士、柱の部材はヒノキで、魚は鯛が一番、小袖の着物はもみじ柄がいい、さらにダメ押しをするかのように桜といえば吉野山の桜が一番と、最初と最後に二度も桜を持ち出すなどは、よほど桜が好きだったようで、殺生厳禁の仏門に身を置き、しかも臨済宗という戒律の厳しい宗派に属する僧侶とは思えぬ俗っぽい言葉を残すなどは、一休禅師の人柄が見えるようでおもしろい。

 安土・桃山時代、織田信長亡き後、権勢を極めた豊臣秀吉は、その晩年、京都の「醍醐寺・三宝院」裏の山麓において壮大な花見を催した。
 すでに死期を悟った秀吉一世一代の催しは、後に「醍醐の花見(だいごのはなみ)」とよばれ、秀吉はこの約5か月後に没している。


  江戸時代になり、町人文化が華やかに開花した元禄年間、のちに忠臣蔵で知られる「赤穂事件」。 3月14日(現行暦4月21日)、「江戸城・松の廊下」において、播州赤穂藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、高家旗本・吉良上野介(きらこうずけのすけ)に対して刃傷(にんじょう)におよび、事件当日の夕刻、お預け先の陸奥一関藩・藩邸の庭において、切腹を命じられる。

 「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」という辞世の句を残し、35年の生涯を閉じる。 折しも、春の名残の桜の花びらが散っていたという。(ただし、これは後に「忠臣蔵」の舞台演出で創作されたもので、史実かは不明であるが。)

 花見の風習が広く庶民に広まっていったのは江戸時代の享保年間、ときの8代将軍「徳川吉宗」が浅草(墨田川堤)や飛鳥山(北区/王子)に桜を植えさせ、庶民の行楽を奨励したことがきっかけで、各地に桜の名所が作られるようになり、花見の習慣が広まったともいわれている。


大山桜 2014.04.08
ところで、伊勢原市の大山の麓、大山地区の「大山阿夫利神社・社務局」の裏山(桜山)に、4本の大山桜(山桜の一種・オオヤマザクラ)がある。

 その中でもひと際大きく、通称「上の大山桜」と呼ばれるヤマザクラがある。 樹齢400年、幹周りが3.5メートルともいわれるオオヤマザクラの古木である。

 「大山小学校」のグランドわきの山道を、約20分ほど登っていくと、それは突然と杉林の斜面に姿を見せる。
 仰ぎ見るその姿は、両腕を大きく広げ、覆いかぶさるように立っている。

 ここ数年は、開花の頃を見計らい、毎年のように訪れるようになった。

 満開のときもあれば、まだ開花していない時も、散り終わって葉桜になっていた年もあるが、敢えて一年に一度だけと決めている。

 「一期一会」を楽しみに、今年はどんな顔で迎えてくれるのだろうかと思いをはせながら斜面を登っていく。

 そして今年は、満面の笑みをうかべて迎えてくれた。


” 集落を何百年ものあいだ、見下ろしてきた一本桜。
 校門を登下校する子供たちを見守ってきた一本桜。
 自らの人生を重ねてみる一本桜。
 日本人の誰もが持っている自分だけの桜。
 桜を愛し、桜の数だけ物語があり、人生がある。”           


「深山に 訪ね一条の 花明り」    (裟来)


「山桜 霞の間より ほのかにも 見てし人こそ 恋しかりけれ」  (古今和歌集)

「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」  (古今和歌集)

「散る桜 残る桜も 散る桜」      (良寛)