2013年3月22日金曜日

山麓散歩(愛甲石田から日向薬師へ)


(コース概要)

・ 小田急・愛甲石田駅から清流・玉川を経て、春の山里を日向薬師へと歩く。

愛甲の丘陵地から、清流・玉川の田園地帯へと下り、再び実蒔原の丘陵を越え、霊峰大山の南東側の麓に位置する日向薬師の山里へと歩く、どこか懐かしい風景に会えるコース。
春は玉川沿いの桜、菜花。 秋は洗水から日向の里の彼岸花の頃が特におすすめです。
(尚、本コースは、いわゆるハイキングコースではありませんので、道しるべとなる案内板などはありませんので、事前に地図等を準備し、確認しながら歩いて下さい。
また、一部未舗装の道もありますので、ハイキング程度の装備が必要です。)

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(コース)

 (愛甲石田駅)→熊野神社→さんきゅう坂→柳橋→玉川沿い→小野橋→通安橋→実蒔原・(水車小屋)→洗水(あろうず)→日向薬師→日向梅林→薬師林道→「日向薬師」バス停⇒(伊勢原駅)

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(所要時間)
・歩行時間:約3時間/歩行距離:約9.5km (距離・歩行時間は目安です。)

(備 考)
・記 録:2016年 05月08日
・アクセス:始点 : 小田急・愛甲石田駅
      終点 :「日向薬師」バス停(伊勢原駅行き)
     (バスの時刻・料金等は神奈川中央交通HPで確認して下さい)


(動 画)


● YouTube:山麓散歩・愛甲石田から日向薬師へhttps://youtu.be/nOe5gjZMCLY



(コース図) 山麓散歩・愛甲石田駅から日向薬師へ


より大きな地図で 山麓散歩・(愛甲石田から日向薬師へ) を表示



山麓散歩(愛甲石田から日向薬師へ)/独案内

1.愛甲石田駅から玉川へ


① 小田急電鉄の愛甲石田駅の改札を出て左へ、地上駅舎の北口を出ると国道246号線上の陸橋へとつながっている。 今回の散歩道はここから始まる。


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■ 愛甲石田駅 

小田急・愛甲石田駅
愛甲石田駅は、大山南麓の穀倉地帯を見下ろす台地上にあり、東に厚木市、西は伊勢原市に挟まれた周辺は、古くから縄文、弥生~古墳時代の遺跡が点在し、律令時代には西の都から、足柄峠を越え相模国府(海老名市国分に国府、国分寺があったと推定されている)から武蔵野国へ至る官道が通っていたとも考えられている。

 江戸時代になり、徳川幕府により箱根峠を越え海側に「東海道」が開かれた後も、「矢倉沢往還」と呼ばれ、脇街道としての重要な機能を果していた。

 さらに江戸時代後期になると霊峰大山への参詣の道としても利用されるようになり、多くの人たちで賑わったことから、「大山道、大山街道、青山道、江戸道、矢倉道、相州街道、・・・・」等、いくつかの名前で呼ばれるようになる。

 「宿愛甲」から急坂を登り、駅の南口前を通り小田急線の踏切を渡り、国道に合流する道が、矢倉沢往還の古道である。この道筋は、近代になり「国道246号」線として受け継がれ、さらに「東名高速道路」も平行して走るなど、現在もなお交通の要所であるといえる。

愛甲石田駅・地上北口
余談ではあるが、駅周辺に「愛甲石田」という地名(住居表示)は存在しない。 昭和初期に小田急・小田原線(東京・新宿から神奈川・小田原まで)が開通する際、隣接する当時の愛甲郡南毛利村愛甲(現・厚木市愛甲)と中郡成瀬村石田(現・伊勢原市石田)の間で行われた駅建設の誘致合戦の結果、現在の駅名となったという。 

 ちなみに、現在の駅の住所は、「厚木市愛甲1丁目-1番-1号」となっているが、構内の一部は「伊勢原市石田」側にも入り、駅の公衆電話も市外局番が「厚木局」と「伊勢原局」の2つが左右に並んで設置してある。 この左右に分かれて設置された電話機の微妙な隙間が市の境なのだろうか。
 ただ、地図で見る限りでは、伊勢原駅寄りのホームの一部がわずかに市境にかかっているようである。


② 国道246号上の陸橋を右へ、「愛甲宮前」交差点へと向かうと、交差点上から県道への階段を下り、県道沿いを歩いたところですぐに、「宮前団地」横・右側の小道に入る。 団地横を過ぎたところをさらに直進すると、正面に「熊野神社」の鳥居が見えてくる。


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■ 熊野神社

愛甲・熊野神社
熊野神社の創建は不明であるが、平安末期から鎌倉初期の頃には「紀州・熊野権現」が祀られていたとも考えられ、江戸時代には、修験道・宝蔵院の別当に属していたことから不動明王と大日如来の刻まれた石塔が建っている。

 現在は伊弉冊之命 ( いざなみのみこと )、四方津事解男之命 ( よもつことさかのおのみこと )、速玉男之命 ( はやたまおのみこと )を祭神として祀る。 境内にはイチョウの古木と、室町(南北朝)時代の康暦2年(1380)2月の銘文が彫られた石灯籠が保存されていて、在銘の石灯籠としては神奈川県下でも最古(関東地方における在銘最古級のもの)として市指定有形文化財となっている。

 旧愛甲村(愛甲庄)の鎮守として、また「お熊さん (おくまんさん)」の呼び名で長く地域の人々に親しまれてきた。 「宮前」と言う地名も、この神社に由来するものか。


③ 「熊野神社」の鳥居前の道を左へ曲がり、住宅地の小道を突き当たった所で右に曲がると、突然視界が開け「さんきゅう坂」の坂の上に出る。


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■ さんきゅう坂

さんきゅう坂
東名高速道路・歩行者用通路














坂の名の由来は、江戸時代後期の天保年間頃、この愛甲地区は石川氏、若林氏、嶋氏の三人の地頭(旗本)が分郷していた。 このように三人が領地を所有する場合を「三給」と言い、かってこの坂の途中に年貢をおめる米倉が段ごとに並んでいたことから、「さんきゅう坂」と呼ばれるようになったとも言われている。 坂の下り口には、厚木市の建てた坂の由来を書いた石標があるが文字が読みづらくなっていた。

 坂の上からは、東名高速と梨畑の向こうに玉川(たまかわ)をのぞむ事ができる。かって田園風景がひろがっていた一帯は、物流倉庫が建ち並び、丘陵地の上まで住宅地がひろがっている。


④ 「さんきゅう坂」の途中で道は二つに分かれ、左へ下って行くと、ほどなく東名高速道路の下に出る。

⑤ 高架下の歩行者用通路を潜りぬけ、車に注意しながら車道を横断し、右へ20mほど行ったところで畑の間の小道(未舗装)に入る。再び車道に出た所で左へ、「愛甲小学校」のグランドへと向かう。 グランド手前で右折、梨畑横を過ぎると玉川に架かる「柳橋」に出る。 

(ここからは、天気が好ければ大山を望むこともできる。)


2.柳橋から通安橋へ


① 「柳橋」を渡り左へ、玉川の土手沿いの道を正面にそびえる大山へ向かうようにして上流へと歩く。 (時々、車が通るので注意が必要。)


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■ 玉川

玉川・柳橋から大山遠景
玉川は、大山・丹沢山塊の東南端に位置し、七沢、日向の山々へと連なる、これらの分水嶺に端を発した雨水が、七沢川、日向川となり、合流して玉川と名を変え、小野から長谷、、愛甲、船子を経て恩曽川に通じ、戸田橋(上戸田)で相模川に合流する一級河川で、地図で見ても分るとおり、七沢、日向川の合流点の少し下流部から、恩曽川に合流するまで一直線に流れている。 河川改修の結果、造られた人工の川である。

 かっての玉川は、水田地帯を大きく蛇行し、伊勢原側の渋田川に合流、さらに花水川から相模湾へと流れていた。 昔より「暴れ川」として恐れられ、特に関東大震災以降、大山・丹沢周辺の地殻の変動により山肌が崩壊しやすくなり、雨が降るたびに大量の土砂が流れ込み川床を上げ、いわゆる「天井川」となり、毎年のように水害をもたらしていた。

流域村民は、県に対し河川改修を嘆願していて、昭和14年3月に現在のように相模川に放流する計画が決まり、いったんは事業が開始されたものの、下流地域の住民からの反対で事業は中止となった。 

 再開の契機となったのが、昭和16年7月の雨台風による水害で8人の尊い生命が失われたことである。 流失・倒壊家屋30数戸、床上床下浸水40~50戸、流域の水田・耕作地は壊滅状態といった甚大な被害であった。 流域の村長、村会議員、村民らの熱意が県会議員、代議士を動かし県知事を説得、事業の許可が下りたのは12月15日、太平洋戦争開始(真珠湾攻撃・12月8日)の1週間後であったと言う。

 下流地域の住民の承諾も得ることができ、昭和17年1月から工事が本格的に開始されるも、すでに太平洋戦争の戦時下であり、資材や人力の慢性的な不足から工事は難航した。
村の若い男性のほとんどが戦地へと出征し、女性や高齢者、勤労動員の生徒など、近隣住民を含め、延べ約1万人以上の勤労奉仕による人海戦術で工事は行われたという。

 戦争が激化し、米軍機の本土空襲により、たびたび空襲警報が鳴るなかでも、手に持つスコップを鉄カブトがわりにして作業は行われたという。 現在のような建設機械・重機などなく、想像を絶する過酷な状況であったという。

昭和21年4月、終戦後の混乱期を乗り越え、約4年10ヶ月の歳月を経て「新玉川」が完成、その後水害で悩まされることは無くなった。 食料増産のもとに、河川改修と同時に耕地整備がされた田園地帯も、今では都市化が進み、工場や物流倉庫が建ち並び、住宅地となりすっかり風景が変わってしまった。

 完成から65年以上経ち、「旧玉川」の面影は無くなりましたが、河川改修により壊れた生態系を取り戻そうとの願いから、水辺には草木を植栽し、魚や水鳥、小動物の生息場所の保全、水質の浄化に努めた結果、周囲の風景と調和した清流へと戻りつつある。
川沿いの道は、厚木市の「健康の道」ウォーキングコースにもなっていて、周辺住民の散歩道として、身近に自然を感じられる場所としても親しまれている。
 現在、厚木市立小野児童館の敷地内に「玉川河川改修記念碑」が建っている。

堰橋・カワセミ
玉川・宮前橋と桜















② 水田と梨畑のひろがる川沿いを進むと、やがて篭堰橋に出る。 ここで新旧の玉川が交差しているが、川と言うよりは、排水溝のようになっているので見落としてしまうほどである。
「厚木市環境みどり公社」の衛生プラント前にやや大きい堰があり、ここはカワセミの撮影ポイントにもなっている。

③ 左手に「玉川野球場」を見ながら、青い水道管の架かる「玉川橋」を過ぎると、古いコンクリート製の「宮前橋」が見えてくる。

④ 「宮前橋」を渡ったところに「小野神社」がある。


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■ 小野神社

小野神社
創建年代は不明であるが、延長二年(924年)に撰修された『延喜式神名帳』に、相模国十三座の一社として記載されていたことからも、古くからの由緒ある神社であることが想像できる。
 創建時は背後にある神の山にあったといわれ、建久五年(1194年)には鎌倉幕府の政所別当であった大江広元や、当地の領主・愛甲三郎季隆らにより再興されたことが記録に残されている。

 大江広元は源頼朝が鎌倉に幕府を開くに際して、京から招いた政治家で、鎌倉幕府の柱石となった人物と言われている。 また愛甲三郎は小野妹子から4代隔てた子孫・小野篁を祖とする武蔵七党横山党の一族の出身で、弓の名手として源頼朝に仕え、鎌倉幕府の有力な御家人として活躍した人物。

 鎌倉幕府三代将軍・実朝の建保元年(1213年)、頼朝亡き後、幕府の主導権を狙う執権・北条義時と頼朝旗上げ以来の重鎮であった和田義盛の間で戦(後に「和田合戦」と呼ばれる)となり、由比ヶ浜において和田一族は滅亡、これに味方した愛甲氏もともに討ち死にしたと言われている。 このとき北条氏側にいたのが大江広元であった。 後に敵味方に分かれることになるが、広元も季隆も小野神社を厚く崇敬したといわれる。

江戸時代になって現在の地に遷座され、「閑香(かんか・あいこう)明神社」、または「閑香(かんか・あいこう)大明神」と呼ばれていたが、明治六年、愛甲郡総鎮守・「小野神社」と改名され現在に至る。

御祭神に日本武尊、下春命を祀り、旧蹟地であった神の山には古代官道「古東海道」が通じていたとも言われている。 鳥居前を津古久峠へと上って行く道は、戦国時代より伝わる「小田原道」である。 小田原・北条氏により武蔵国の諸城・館との連絡道路として発達、軍用道路でもあった。
 江戸時代には伊勢原・大山に至る大山道として、多くの人々に利用されていたようだ。

 また、平安時代の歌人で美人としても有名な「小野小町」ゆかりの地とも言われ、玉川を隔てた対岸の丘陵に「小町神社」の小さな社がある。 ただし、全国にはこのような伝承が多数あり、たまたま地名が「小野」であったことに由来したものと思われ、定かではない。

玉川・小野橋付近
小野児童館・河川改修記念碑

















⑤ 「宮前橋」から「小野橋」を過ぎた「厚木市立小野児童館」の敷地内に「玉川河川改修記念碑」が建っている。

⑥ 「中屋橋」から「神明橋」を過ぎると、田園風景も終わり急に視界が狭まってきたところで、昭和37年に造られたコンクリート製の「通安橋」に到着。 ここからは左岸の丘陵地を目指し、玉川の流れを後にする。



3.通安橋から古戦場・実蒔原(さねまきはら)へ


① 「通安橋」を渡り、県道の車に注意しながら横断し、向い側の小道へと入る。 突き当りを右に曲り、作業場のある2つ目の角(ケヤキの古木)を左へ小道を登っていく。 (七沢から日向薬師へと通ずる古道・旧大山道と思われる。)


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■ 通安橋

玉川・通安橋
作業場横・旧大山道分岐

馬頭観音・旧大山道























② 馬頭観音の石塔まえを過ぎ、さらに野辺の石仏に突き当ったところで左へ、古い切通しの急坂を登っていくと、竹林の先で急に視界が開け、台地の上に出る。 ここからは正面に大山を望む耕地がひろがる。 

 道の途中に大山道の道標を兼ねた庚申供養塔がある。旧大山道はここで左の畑を横切り、向いの林の中へと続いていたが、今は畦道にわずかにその痕跡を残すのみである。 

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■ 実蒔原(さねまきはら)

切通し・旧大山道
実蒔原より大山を望む


















 厚木市七沢から旧大山道の切通しを上って行くと、伊勢原市西富岡へと広がる一帯は、かつて「実蒔原(さねまきはら)」と呼ばれる原野であった。

 室町時代、上杉氏一族の諸家の中で、宗家としての「関東管領」の職を継承してきた「山内上杉氏」と、分家的存在の中で勢力をつけてきた「扇谷上杉氏」(室町時代にそれぞれ鎌倉の山内(やまのうち)/鎌倉市山ノ内と、扇谷(おうぎがや)/鎌倉市扇ガ谷に館(やかた)があったことに由来する)による一族内の主導権争いが内紛へと激化、室町幕府の権力が衰退していくなか、関東では同族の分裂、新興勢力の台頭など群雄割拠し、すでに戦国時代前夜ともいえる様相を見せていた時代である。 

 文明18年(1486)、扇谷上杉氏の重鎮・太田道灌が謀反(むほん)の疑いで、主君・上杉定正(さだまさ)により糟屋館(神奈川県伊勢原市)において謀殺されると、扇谷上杉氏家臣に動揺が拡がり、造反者もでるなか、好機とみた山内上杉顕定(あきさだ)は、扇谷上杉氏に味方する長尾房清の下野国・勧農城(栃木県足利市)を攻め落とす。

 ここに扇谷上杉氏と山内上杉氏の間で争いが勃発、これが世に言う「長享の乱(ちょうきょうのらん)」の始まりです。

 長享2年(1487)2月5日、山内上杉顕定(あきさだ)・憲房(のりふさ)〔顕定養子〕は、扇谷上杉氏の本拠地・相模国糟屋に押し寄せました。
 顕定は糟屋の館の北を守る七沢要害(七沢城、厚木市七沢)を攻略し、扇谷上杉定正と城の南に位置する「実蒔原」で激突しました。

庚申供養塔・旧大山道道標
江戸時代の戦記物である『北条記』によると、顕定父子は一千余騎、これに対して定正は二百騎で河越城(埼玉県川越市)から、一日一夜で駆けつけたといいます。
その戦いは「原野、血に染まって野草緑を替えにける」といった激戦でしたが、「山内の大勢わずかの小勢に懸負けて、四方に乱れ落ち行く」といった結果となりました。実蒔原の地形を熟知した定正の作戦勝ちとも言われている。 しかし、薄氷を踏む勝利だったようで、定正もその書状で、かろうじて勝利したと述べています。

 上杉氏は、元々天皇家に仕える公家の家柄であったが、鎌倉幕府6代目の征夷大将軍として迎えられた「宗尊親王」に従い関東へ下向、武家となる。 鎌倉・室町幕府では幕府の要職を勤めるなど次第に勢力を広げていき、「関東管領」として関東・上信越・伊豆地方一円を実質的に支配していた上杉氏も度重なる内紛と、伊勢宗瑞(後の北条早雲)らの新興勢力の台頭により衰退、山内上杉氏は家臣であった越後の守護代・長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り越後国へ。

 名門「上杉」の名はその後、越後・長尾氏により大名として、戦国・江戸時代へと受け継がれていく。 また、山内上杉氏以外の諸家も、江戸時代の「旗本」として家督を継承された家もあったと言う。

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■ 実蒔原/古戦場跡・石碑

三畝塚古墳跡・石碑
古戦場跡石碑
古戦場跡・石碑

古戦場跡をしるす石碑の横には、「三畝塚古墳跡」の石碑も建っている。 周辺は古墳の点在する場所であり、かって「三畝塚古墳」があった場所とされている。 

水車小屋
(碑文)
「 かつてこの原にそびえた三畝塚古墳は
  いまを去る千三四百年のころ、この地に
  在つた有力な豪族の奥津城である。
  いまその故地に碑を建て高部屋の古き
  歴史をながく偲ぶよすがとする。
         東京大學教授 三上次男撰
   昭和三十五年三月    掘江重次書 」







③ 野道から民家の横を通り、耕作地へと出る。 整備された用水路の一角に、水車小屋が復元されていたが、その後の補修がされていないのか動かないまま放置状態になっている。 

④ 県道(県・63号)を横断し、直進すると正面の小高い丘にある洗水(あろうず)の古墳遺跡へ。(県道・横断時には車に注意)



4.実蒔原から日向・洗水(あろうず)古墳遺跡へ


① 少し広い道(左角に庚申塔、以前は2塔あった)に合流し、丁字路を右へすぐの四辻で、正面の小道(農道)に入る。(小道入口の右側に馬頭観音と思われる石仏が残されていて、右やくし道の文字が刻まれている)

② 農道を少し上っていくと、洗水台地上の耕作地へと出る。 春は菜の花、秋は稲の刈取り作業に彼岸花と懐かしい風景に出会うことが出来る。


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■ 日向・洗水(あろうず)耕地

洗水の田園風景
日向・洗水の田園風景















③ 耕作地が終わる辺りで、左へ水田沿いに入って行くと、日向・洗水(あろうず)古墳遺跡がある。 なぜかヒツジの石造が迎えてくれる。
(この辺りは、戦中・戦後期に食料増産の要請もあって開墾されたようである。)


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■ 日向・洗水(あろうず)古墳遺跡

日向・洗水遺跡(古墳跡)
伊勢原市日向・洗水地区の長後山東側斜面に広がる田園の一角に、6世紀後半から7世紀の古墳時代後期から飛鳥時代にかけて、相模地方でも盟主につぐクラスの人物が葬られていたと思われる墳墓(横穴式石室/古墳)跡があり、出土品の種類からみて、何代にもわたり埋葬が繰り返して行われていたと考えられている。

このほかにも、この周辺から伊勢原市三ノ宮地区にかけてたくさんの古墳が確認されており、県内でも有数の一大古墳群であったと思われ、古代より相模の霊峰・大山の麓に開けたこの地が、歴代の支配者を葬る神聖な場所として選ばれていたのではないかと推測されている。



5.日向・洗水遺跡から日向薬師へ


① 日向・洗水遺跡から元の農道に戻り、小さな水路を抜け、林の中の小道(農道)を登って行くと、県道603号沿いにある「藤野入口」バス停横に出る。
 古くは「馬場(ばんば)の辻」と呼ばれ、角に「関東ふれあいの道」の道しるべと庚申塔(道標)が数基建っている。

 鎌倉時代、源頼朝が「日向薬師」に参詣した際に、坂を登りつめた所で下馬して休んだことから馬場(ばんば)と言う地名が付いたとの言い伝えもある。
 ちなみに、すぐ横には馬をつないだと言う「駒つなぎの松」と名ずけられた小さめの松の木があり、また「洗水(あろうず)」の地名も、源頼朝が沢の水で馬を洗ったことに由来するものと伝えられているが定かではない。

② 「藤野入口」バス停からは県道(バス道)を右へ、緩やかな登り坂を行くと、「日向渓谷」の観光看板が見えてくる。

③ 「十二神橋」(日向川)を渡り、「坊中」バス停を過ぎ、すこし傾斜の増した坂道を上って行くと「大門橋」の先(40~50m)に終点「日向薬師」バス停がみえてくる。

◎ 少し疲れた方は、無理をせずここで終了も。 足にまだ余力がある人は、右側の「日向薬師入口」から参道に入り、日向薬師(薬師堂)へと石段を上って行きます。

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■ 県道・「藤野入口」バス停、(馬場(ばんば)の辻)

「藤野入口」バス停・横の分岐に出る
歓迎・「日向渓谷」入口ゲート















④ 「大門橋」を過ぎたところで右側に、「日向薬師入口」の案内板に従い参道へ入る。


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■ 「日向薬師入口」

日向薬師・山門
日向薬師・仁王門















仁王像(左)・吽形
参道
仁王像(右)・阿形


⑤ 石段を登り、林の中に入っていくと仁王像が迎えてくれる。 神奈川県の天然記念物にも指定されている寺林(スダジイ・ケヤキ・タブノキ・モミなどの自然植生がみられる)の中の参道をゆっくりと登っていくと、本堂への石段が見えてくる。

★ 本堂は現在「平成の大修理」が行われている。(2013年.3月:現在)
* 追記(「平成の大修理」工事は、2016年11月に終了、落慶法要が行われた)

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■ 日向薬師(売店横にベンチ・トイレあり)

日向薬師・本堂(工事前)
寺伝によると、奈良時代の霊亀2年(716)、行基により開山されたと伝えられる。 かっては日向山・霊山寺(ひなたさん・りょうせんじ)と称し、「薬師信仰」の霊場として、鎌倉時代には源頼朝も参詣したという、「薬師三尊」を本尊とする関東有数の古刹であり、「日向薬師」の名で親しまれている。

江戸時代には、山中に十三坊を有し、勅願寺として「日本三薬師」にも数えられほどであったが、明治時代になり、廃仏希釈により「本堂(薬師堂)」、「鐘堂」、「仁王門」など僅かに残すのみで、霊山寺の別当坊であった「宝城坊(ほうじょうぼう)」が寺籍を継いでいる。 林の中を吹きぬける風と、仁王門から山中を本堂に至る参道に往時の面影をみる事ができる。

本堂・「平成の大修理」開始
現在、本堂(薬師堂)は老朽化と虫害のため、平成23年1月(2011.1)~平成28年3月(2016.3)までの約5年をかけて「平成の大修理」が行われている。 過去の大修理は、室町時代の康暦2年(1380)、江戸時代前期の万治3年(1660)の2回、約350年毎で、今回は3回目と言うことらしい。

平成の匠たちにより修復された御堂が、350年後の世までも受け継がれていくことを願い、完成を楽しみにしよう。


* 追記(「平成の大修理」工事も終わり修復された薬師堂)

修復された本堂(薬師堂)















本堂(薬師堂)
















⑥ 工事中の本堂横を通り、売店の前を抜けると薬師林道に出る。 林道の両側が駐車場になっていて、林道の向かいの斜面を上ると小さな梅林がある。


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■ 日向梅林

日向梅林入口
日向梅林














2月下旬~3月中旬にかけ、白梅、紅梅など約100本ほどの梅の木が咲き始めると、山里に春を告げてくれます。
(近年、梅の木も老朽化し、以前ほどの勢いがないように思われる)

⑦ 日向梅林から再び林道(駐車場前)に戻ると、林道を日向の里へと下って行く。

*(尚、日向薬師(薬師堂)からは、林道を歩かずに再び参道を下ってバス停まで戻って来てもよい。) 


6.日向薬師から林道経由で日向バス停へ


① 薬師林道の終点(丁字路)で左へ、「日向薬師」バス停へと車道を下る。

丁字路を左へ下ってバス停へ














丁字路の道標(バス停まで300mほど)















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■ 日向の里

山里の棚田
棚田の梅
棚田の梅

山里の懐かしい風景も、近年は放置された耕作地が目立つようになり、野猿、いのしし、熊などが出没するようになった。

早春の梅花、野辺に咲く菜の花、棚田に水が張られ田植えが終わる頃、朝夕かえるの大合唱が聞こえ、実りの秋、首(こうべ)をたれた稲に、畦道を彩る彼岸花。 みんな懐かしい風景である。

坂道を下ると右にバス停














「日向薬師」バス停















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■ 「日向薬師」バス停(バス停にトイレ・飲料自販機あり)

「日向薬師」バス停
終点、小田急「伊勢原駅行き」の始発となる。 バス停横に売店があるが、土・日・祝日以外は、時々お休みしていることがある。

(向かいに日用雑貨などを兼ねた小さな食料品店があったが、今はもうやっていない。 大山から下山すると、ここでビールとつまみを買って「伊勢原駅行き」のバスを待つのが常であったが、今はその楽しみも無くなり、残念である。)