つい最近までの暑さはどこへ飛んで行ったのか、あらためて季節の移り変わりの早さを感じる。
本日で、関東地域(東京電力エリア)での、2012年の夏の節電期間も終わりである。
秋(あき)とは、現行の暦では、9月から11月の3ヶ月(陰暦7月から9月まで)を言い、二十四節気では立秋から立冬まで、天文学的には秋分から冬至までをさす言葉と定義されている。
「秋(あき)」の語源には諸説ある。
高温多湿の日本の夏をもたらす「太平洋高気圧」が去り、換わって大陸から涼しくて乾いた高気圧がやってくるようになると、澄み渡るような青空が続くようになる。
この空の色が「清明(あきらか)」な時期ということから{あき」になったという説、穀物などの収穫の時期で食べ物が「飽き満ちる(あきみちる)」季節だからという説など。ちなみに収穫で余った物を交換し融通し合うようになったところから「商い(あきない)」という言葉が生まれたという説もある。
また、木々が色づき始める時期でもあることから、紅葉の「紅(あかり)」が転じたとする説など等々・・・・。
また、秋は「とし・とき」とも読み、歳月や時間の経過を表す言葉として使われることもある。「一日千秋の思い」とは、「一日がまるで何年も経過したかのように非常に長く感じられること」を比喩した言葉として使われたり、「春秋(しゅんじゅう)」と言えば、「年月」、あるいは「年齢」を表す言葉として使われることもある。
ところで、童謡「赤とんぼ」などにも歌われるように、秋と夕陽は何となく物悲しくて、日本人の原風景として深く刻まれているのではないだろうかなどと考えてしまう。
ちなみに、平安時代に記された清少納言の「枕草子(まくらのそうし)」にも、「秋は夕暮れ時が一番よい」とあるように、秋と夕暮れを題材としたものとして有名なのが、「新古今和歌集」に収められた「三夕(さんせき)の歌」であろう。
さびしさは その色としても なかりけり
まき立つ山の 秋の夕暮れ (寂蓮法師)
心なき 身にもあはれは 知られけり
鴫立つ沢の 秋の夕暮れ (西行法師)
見わたせば 花も紅葉も なかりけり
浦のとまやの 秋の夕暮れ (藤原定家朝臣)
「三夕の歌」の三人作者は、清少納言よりもずっと後の人達であるが、秋の夕暮れに思う気持ちは、いつの世にも変らない日本人の根底にある季節感なのかもしれない。
「三夕の歌」は、ともに三句目が「・・・・けり」で終わる三句切れ、最後の五句目を「秋の夕暮れ」で体言止めにした同形式の句であるけれども、句の向こう側に見える心象風景は三者三様である。
追記、「鴫立沢」ってどこ?
神奈川県大磯町の旧東海道(国道1号線)沿いに「鴫立庵(しぎたつあん)」という草庵がある。西行法師の「心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」の句にちなみ、江戸時代(寛文四年:1664年)に崇雪(そうせつ:小田原の商人で歌人でもあったといわれ、後に大磯に移り住んだともいわれている)という人物によって、この地に「鴫立沢」の石碑を立て、庵(いおり)を造ったと言われている。
ちなみに、この標石には「看僕盡湘南清絶地」と刻まれていたことから、「湘南」発祥の地ともされている。「湘南」とは、もともと中国の湖南省を流れる「湘江」という大河の南の地域をさし、「洞庭湖」をはじめ風光明媚なことで知られ、古来より中国では山水画の画題や、漢詩に詠まれていたことから、江戸時代当時の文人達にとってもあこがれの場所であったはずである。
相模湾を洞庭湖に、相模川をそこに流れ込む湘江にみたて、鴫立沢周辺の風景を山水画に描かれた中国の湘南に勝るとも劣らない風景であると思ったのであろう。
後に江戸時代の俳人「大淀三千風(おおよどみちかぜ)」が初代庵主として入庵後、代々俳諧道場としても受継がれてきた。
現在は、京都の「落柿舎」、滋賀の「無名庵」とともに日本三大俳諧道場の一つとも言われ、大磯町の有形文化財、史跡にも指定されている。
さて、大磯町教育委員会の案内板によれば、鴫立沢の句は、西行法師がこの地で詠んだという言い伝えが室町時代よりあったと書いてある。
また、一説(西行没後に編纂された「西行物語」による)には文治2年(1186年)、西行(69歳)奥州平泉への旅の途中、鎌倉へ向かう相模国・大庭の砥上ヶ原(とがみがはら)を過ぎたあたりでの夕景を詠んだ句ともされている。
では、砥上原とはどこだろうか? 現在の神奈川県藤沢市鵠沼地区に石上という地名がある。
「JR藤沢駅」南口の商店街から南へ、住宅街へと変わるあたり、かっては砥上(いしがみ)とも表記され、境川(河口付近では片瀬川とも言う)が大きく蛇行した川原の湿原と砂原の広がる荒野で、鎌倉時代は鹿の鳴く声がきこえたとも記されている。
また、「鵠沼(くげぬま)」という地名は、 かってこの辺りに沼が点在していて、白鳥(古くは鵠(くぐい)といっていた)が多く飛来していたことに由来するといわれている。
また、海沿いには片瀬海岸、鵠沼海岸、辻堂海岸と広大な砂浜が続いていて、夏には大勢の海水浴客でにぎわう所であるが、古くは湿地と広大な干潟があり鴫が飛んでいる風景も容易に想像することができよう。
江戸時代には片瀬川(古称では、固瀬川と記す)の渡し場があり、対岸の片瀬を通り河口の砂州に浮かぶ相州江ノ島に祭られる弁財天の参拝者でにぎわう「えのしま道」の街道筋でもあった。
旧街道沿いにある「砥上公園」という名の小さな公園にかっての地名の名残を見つけることができる。また公園の隅には「えのしま道」の道標が保存されている。
鎌倉時代には、このあたりに京と幕府が置かれていた鎌倉をむすぶ「京鎌倉往還」が通っていて、鎌倉武士や商人達が行き交う道でもあった。京から鎌倉へ向かう西行も、当然この道を歩いていたはずである。
平安時代にはすぐ西側を流れる「引地川」の流域を中心に「大庭御厨(おおばみくりや)」と呼ばれた荘園があり、「大庭の荘」とも呼ばれここを所領としていた大庭氏一族は後に鎌倉幕府の有力な御家人となる。「大庭の荘」は相模国のなかでも有数な領地を有していたことから、遠く京の都でもその地名は知られていたと思われる。
ただ、現在と違い正確な地図を携帯していたわけでもなく、人伝に聞いて同じような風景を見てだいたいこの辺りかな程度の知識だったのかもしれない。
「大庭の荘」は、相模川の東岸、現在の茅ヶ崎、寒川あたりまでを領域としていたため、砥上原は現在の辻堂から茅ヶ崎あたりではないかという説もあるが、鴨長明の歌に「浦近き砥上原に駒とめて片瀬(固瀬)の川の潮干(しほひ)をぞ待つ」などとあることからも、砥上ヶ原は片瀬川の西岸ということ(つまり鵠沼から石上あたり)になり、鴫立沢は片瀬川を渡ったところの現在の藤沢市片瀬のあたりではないかとも想像できる。
荒涼とした砂野が広がっていた鵠沼周辺も、明治になり別荘地などの開発がすすむと、文人墨客も多く訪れるようになり、逗子、鎌倉と並ぶ高級別荘地として知られるようになる。
戦後、首都圏のベットタウンとして急速に宅地化がすすむと、閑静なお屋敷(旧別荘地)の風情も少しずつ失われ、マンションが建ち並ぶ度に旧住民らの「鵠沼の景観を守れ!」の声も、いつしか遠のいてしまい残念である。
日本のサーフィン・ビーチバレー・ライフセーバーなどの発祥地として、今や日本を代表するビーチリゾートとして発展し、すっかり変貌してしまったが、今でも湘南・片瀬/鵠沼海岸から見る夕陽の富士山は、やはり秋から初冬のこの時期が一番よいと思う。 きっと西行も夕陽の富士を見たことだろう。
こんなことを考えているうちに、いつに間にか外が明るくなり、夜が明けてきたのでこの辺りで筆をおくことにする。秋の陽はつるべ落としと言われるように夕暮れが早い。夕闇迫る大磯から片瀬あたりの街道のどこかで、ふと足を止め見上げた夕暮れの空に一羽の鴫が飛び立つ様を思いうかべながら一眠りすることにしよう。
なお、「鴫立庵」では、毎年、3月の最終日曜日には「大磯西行祭」があり、俳句や短歌大会が行われている。
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