2012年10月15日月曜日

馬肥ゆる秋


蒸し暑い夏の太平洋高気圧が後退し、大陸からの冷たく乾燥した高気圧が日本列島に張り出してくると、秋も本番を迎える。
 空気が乾燥し、地表の温度も低下することにより、上昇気流が起りにくくなると、チリやホコリが上空に舞い上がることが少なく、したがって雲が発生し難いために好天が続くことになり、空が高いところまで見通せるようになる。

 ちなみに、このころよく見られるようになる高層のすじ状の雲「すじ雲(巻雲)」や、魚のうろこや小石をならべたように見える雲「うろこ雲(巻積雲)」は、高度6千メートル前後から1万3千メートル位の高い場所にできることから、これらの雲が多く見られるようになる秋空を高くなったと感じる人もいると思う。


 ところで、秋をあらわす表現として、「天高く馬肥ゆる秋」の慣用句が使われることがある。

 秋になり晴れの続く好天気となり、気温もすごし易くなると、馬も食欲を増して逞(たくま)しく育ってくる気候のよい時期との形容として使われることが多いいが、しかし元々の意味は、古来中国では秋の収穫時期になると北方の騎馬民族が、秋の実りを略奪する目的で毎年のようにやってくるために、北の侵略者への警戒感を怠らぬようにという戒めの意味があると言われている。

 ここで言う「北方の騎馬民族」とは、紀元前4世紀頃から5世紀頃まで中国・北部のモンゴル高原(蒙古高原:もうここうげん)を中心に遊牧生活をしていた民族で、匈奴(きょうど)と呼ばれた人々をさす。この頃の中国は、「秦」から「漢」の時代であった。

 中国を統一した「秦」の始皇帝も北からの侵略を防ぐために長大な防護壁を築いた。これが後に「万里の長城」の基礎となったとも言われている。ちなみに現在観光地として世界遺産にも登録されている「万里の長城」は、ほとんどが後の「明」の時代に造られた物である。

 匈奴が衰退した後も、モンゴル高原では幾多の部族が盛衰を繰り返すなか、12世紀末になり遊牧民の各部族を統一した「チンギス・カン(チンギス・ハーン)」は、東は朝鮮半島から西は東ヨーロッパに至る広大な「モンゴル帝国」を築くことになる。

 その孫で5代皇帝となった「フビライ(クブライとも表記)」は、本拠地をモンゴル高原から大都(現在の北京)に移すと、国号を「元」と改め本格的に中国国内の統治を強めていった。
 さらに東アジアへの勢力拡大をねらい、当時支配下にあった朝鮮半島・高麗(こうらい)との連合軍で日本(当時の鎌倉幕府)への侵略を行うも、2度にわたり失敗に終わる。いわゆる「元寇の役(げんこうのえき)」である。

 日本への3度目の遠征計画は、周辺地域への支配圏拡大による外征、および度重なる内乱から、財政難となり放棄せざるを得なくなったとも言われている。

 その後、フビライ以来約100年以上続いた巨大帝国・「元」王朝も、度重なる内紛と反乱により、衰退の道を歩むことになる。そのきっかけが「紅巾の乱(こうきんのらん)」といわれている。
 この約10年以上にも続く内乱のなかで頭角をあらわしたのが、朱元璋(しゅ げんしょう)という貧農出身の人物で、王朝「明」を立て中国を再び漢民族のもとに取り戻すことになる。

 遊牧民族の「元」は、「万里の長城」の北側の故郷モンゴル高原の草原へと追われることになり、「北元」王朝として存続をはかるもやがて衰退していく。 がその末裔たちは、その後の「モンゴル国」独立の礎となった。

 「明」王朝になっても、北からの脅威はなくならず、その後も「万里の長城」は造り続けられることになる。現存する長城の大部分は、明時代につくられたものいわれている。
 その「明」王朝も、17代、約270年で終焉を迎えることになる。明代末期の中国東北部では、少数民族であった満州族(古くは女真族といった)が、同じ北方諸民族を統合すると、国名を「清(しん)」とし、勢力を拡大していた。

 当初、農民の反乱から始まった「李自成の乱」により、明王朝が滅びてしまうと、その混乱にじょうじるようにして満州族は「万里の長城」を越え、首都・北京の反乱軍を制圧すると、さらに南下し明王朝の旧領をすべて征服し、北京を首都とする「清」王朝を誕生させる。

 中国での圧倒的多数を占める漢民族は、再び北方からの少数民族である満州族に支配されることになる。その清朝も12代(276年)で、孫文ら漢民族による「辛亥革命(しんがいかくめい)」により、その終焉を迎えることになる。
 この革命により共和制による「中華民国(ちゅうかみんこく)」が樹立されると、古代より続いた中国の歴代の王朝による君主制は廃止、清朝最後の皇帝であった「愛新覺羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)」は、ラスト・エンペラーと呼ばれることになる。

 この後、「満州事変」により、満州(現在の中国東北部)全土を占領した関東軍(大日本帝国陸軍)の主導の下、「満州国(まんしゅうこく)」を建国、元首(執政のちに皇帝となる)に清朝・皇帝であった「愛新覺羅 溥儀」が就任するも、太平洋戦争での日本敗戦とともに「満州国」も消滅することになる。