2012年3月6日火曜日

相州大山とは


相州大山


相州・大山
神奈川県の西部、昔で言うなら相模国、大山は丹沢山塊南東端に位置し、標高1251.7メートルながら、前面に相模平野、さらに相模湾と開けているため、独立峰としての山容を見せている。

 「頂上は常に雲霧深く、ややもすれば大いに雲起こり、雨を降らす ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・」と言われたように、相模湾から吹き寄せる湿気を帯びた風が、その山頂に雲を呼び、雨を降らすところから、古来より関東一円の農民には雨乞い、豊作祈願の神として、相模湾を生活の場とする漁民には魚場位置、航路決定の格好の目印であり、豊 漁、海上安全祈願の守護神として信仰されてきた。

山頂・霊木
雨降山、阿倍利山、阿武利山、阿夫利山(あぶり・あふり)とも言われ、その語源は「山頂に年中
水のしたたっている霊木がある」からとも、「山頂が常に雲に覆われ、山中に雨を降らす」からとも、さらにアイヌ語の「アヌプリ(偉大なる山)」から転訛した説や、原始宗教における神の存在を意味する「あらぶる」が転訛したとする説などがある。
 
山頂には、大山祇大神(オオヤマズミノオオカミ)、高おかの神、大雷神(オオイカズチノカミ)の三神を祭神として祀り、古くは石尊社、石尊大権現、大山寺本宮などと称した。
 現在の「大山」という山名は、大山祇大神の名に由来するものと言われている。

「大山寺縁起」によると、同寺の創建は奈良時代の天平勝宝七年(755年)に良弁僧正により、山腹に不動堂などを設けたことに始まると伝えられ、以降山頂の本社石尊大権現と山腹の大山寺を中心に、真言密教の修験道場として相模の山岳修行の中心となった。

山頂・奥の院
中世、鎌倉時代以降は、武将の崇敬を受けるが、江戸時代になり徳川家康の「寺院法度」の発布により多くの修行僧(修験者)が山をおり、麓の大山や蓑毛に定住し、御師(おし)となって門前町を形成し、宿坊、祈祷、先達(せんだつ)などの重要な役割を果たした。

 江戸時代以降、関東を中心に庶民の間にも大山信仰が広がると、関東一円から大山へ雨乞い・豊作・豊漁祈願、海上安全、無病息災、家内安全、防災招福、商売繁盛などの祈願のために、各地に『大山講」と呼ばれる組織が結成され、集団で参詣するようになる。

大山阿夫利神社
なかでも水に関係する職業である町火消し・酒屋、御神体の刀に関係する大工・石工・板前など、農民だけでなく、広く各階層に信仰されたのは、これら御師による布教活動と、地域の相互扶助をかねた大山講中の存在が大きかったと言われている。

 明治時代初期の資料によれば、各御師の布教圏と大山講の組織範囲は、相模・武蔵・安芸・下総・上房・常陸・下野・上野・岩代・磐城・甲斐・信濃・越後・遠紅・駿河・伊豆の十六ヶ国にも及んでいて、今も残る門前町の佇まいの其処ここに、往時の面影を見ることが出来る。

明治維新、神仏分離令(明治六年)により、石尊大権現は「大山阿夫利神社」と改称し、不動堂は破却された。また、山頂のかっての「石尊社」は本社(奥の院)となり、中腹の不動堂跡には拝殿が設けられ下社と称し、神社として整備されることになる。

大山寺
「廃仏毀釈」後、程なくして下社の下方、「女坂」の中ほどに大山不動尊(成田、高幡と並ぶ関東三大不動のひとつ)を祀る「雨降山・大山寺(うこうさん・だいさんじ)」が再建された。 

 山麓は、厚木市・伊勢原市・秦野市にひろがり、山岳信仰を中心とする歴史と文化、豊かな自然が残るところであるが、しかし近年、山林の荒廃、農家の農業従事者の高齢化による休耕田や耕作放棄地の増加、農地や林野の宅地造成や高速道路建設工事にともなう森林伐採など、急速な都市化が進むなか昔ながらの里山の風景も失われつつある。