2012年3月11日日曜日

大山阿夫利神社と「大山詣で」


相州(相模国)・大山道


 大山道は、相模国大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)へ参拝するための信仰の道です。大山は、古来より山岳信仰の霊山、雨乞いや祖霊崇拝の山であり、子供から大人になるための通過儀礼として「大山詣で」が行われていた地域もあった。

 江戸時代には、多くの人々が山頂の石尊権現をめざした。その参詣道は「大山道」と呼ばれ、大山から関東平野はもとより、陸奥(みちのく)・東北地方、東海地方へと放射状に広がっていたと言われている。

 明治時代中頃になると、鉄道や自動車などの交通網の発達により、「大山道」は次第に利用されなくなり、何時しか人々から忘れ去られ、地図上からも消滅していった。それでもわずかに残されたこれら「旧大山道」沿いの辻跡には、今でも道祖神や庚申塔に刻まれた「大山みち」の道しるべを見ることができる。

大山阿夫利神社と「大山詣で」

 大山は、丹沢山麓南東端に位置し、標高1251.7メートルながら、前面に相模平野、さらに相模湾と開けているため、独立峰としての山容を見せている。

 古くより「頂上は常に雲霧深く、ややもすれば大いに雲起こり、忽ち(たちまち)雨を降らす・・・・・」と言われるように、相模湾から吹き寄せる湿気を帯びた風が、その山頂に雲を呼び、雨を降らすところから、古来より関東一円の農民には「雨乞い」、「豊作祈願」の神として、相模湾を生活の場とする漁民には魚場の位置、航路決定の格好の目印であり豊漁、海上安全祈願の守護神として信仰されてきた。

 雨降山、阿倍利山、阿武利山、阿夫利山(あふり・あぶり)とも言われ、その語源は「山頂に年中水のしたたっている霊木がある」からとも、さらにアイヌ語の「アヌプリ(偉大なる山)」から転訛したとする説や、原始宗教における神の存在を意味する「あらぶる」が転訛したとする説など諸説あるようです。

 山頂に、大山祇大神(オオヤマズミノオオカミ)、高おかみの神、大雷神(オオイカズチノカミ)の三神を祭神として祀り、古くは石尊社、石尊大権現、大山寺本宮などと称した。 現在の「大山」という山名は、山頂に祀る「大山祇大神(オオヤマズミノオオカミ)」の名に由来するものと言われている。

 大山祇大神は、山の神・水の神として、また大山が相模湾を航行する船の目印とされていたことから漁業、海運の神として、さらに酒造の祖神としても信仰されていた。
 高おかみ神は、水の神様として「日本書紀」にも記され、雨乞いの神様としても信仰されてきた。大山では、別名「小天狗」とも呼ばれている。
 大雷神は、雷(いかずち)の神として「日本書紀」に記され、古来より火災、盗難除けの神として信仰されてきた神様で、大山では、別名「大天狗」とも呼ばれている。



 「大山寺縁起」によると、大山寺の創建は奈良時代の天平勝宝七年(755年)に良弁僧正により、山腹に不動堂などを設けたことに始まると伝え、以後山頂の本社「石尊大権現」と、山腹の「大山寺」を中心に、真言密教の修験道場として相模の山岳修行の中心ととなった。
 中世、鎌倉時代以降は、武将の崇敬を受けるが、江戸時代になり、徳川家康の「寺院法度」の発布により、多くの修行僧(修験者)が山を降り、麓の大山や蓑毛(みのげ)に定住し、御師(おし)となって門前町を形成し、宿坊、祈祷、先達(せんだつ)などの重要な役割を果たした。

 江戸時代以降、関東を中心に庶民の間にも「大山信仰」が深まると、関東一円から大山へ豊作祈願、無病息災、家内安全、防災招福、商売繁盛などの祈願のため、各地に「大山講(おおやまこう)」と呼ばれる組織が結成され、集団で参詣するようになった。
 なかでも水に関係する職業である「町火消し」、「酒屋」、御神体の刀に関係する「大工」、「石工」、「板前」など、農民だけでなく広く各階層に信仰されたのは、これら御師による各地での布教活動と、地域の相互扶助をかねた「大山講中」の存在が大きい。

 明治時代初期の資料によれば、各御師の布教圏と大山講の組織範囲は、地元の相模、武蔵、安房、下総、上総、常陸、下野、上野、岩代、磐城、甲斐、信濃、越後、遠江、駿河、伊豆の十六ヶ国にも及んでいた事がわかります。

 明治維新の後、新政府による「神仏分離令(明治元年)」の発布を機に、全国各地で仏教寺院や仏像・仏具、僧尼を排斥する廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動の高まりにより、大山でも「石尊大権現」が「大山阿夫利神社」と改称され、不動堂は破却されることになる。
 また、山頂の「石尊社」は、阿夫利神社・本社(奥の院)となり、中腹の不動堂跡には拝殿が設けられると阿夫利神社・下社と称し、神社として整備されることになる。

 その後、廃仏毀釈の波が収まると下社の下方、女坂の途中の大山不動尊(成田、高幡と並ぶ関東三大不動のひとつに数えられている)を祀る、雨降山・大山寺(うこうさん・だいさんじ)が再興され、かっての山岳修験道場の名残りを今に伝えている。

 大山阿夫利神社の主な祭礼は、新年1月7日の筒粥祭(つつがゆさい)、竹筒ですくい取った粥の量で吉凶を占う神事。 その年に蒔く農作物の作柄の豊凶や気象、風雨などを神に伺うというものであり、五穀豊穣・雨乞いの神として農民の厚い信仰をうけていたことを物語っている。
 占うものは、米の早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)・大麦・小麦・粟(あわ)・黍(きび)・稗(ひえ)・菜種(なたね)・豆・小豆(あずき)・蕎麦(そば)・胡麻(ごま)・綿(わた)・芋・蚕(かいこ)・大根・たばこ、等々で当時の主要農産物の内容を知ることができる。
 
 7月27日に行われる「夏の例大祭」。 この日から8月17日までの間を「夏山まつり」と称し、かって江戸時代には、この期間中だけ「石尊大権現」の鎮座する山頂への登山を許されていた。 ただし、「女人禁制(にょにんきんせい)」により、女性の山頂への入山は禁止されていた。
 かって山岳信仰では、女性は不浄のものとされ、神の鎮座する山頂は神聖な場所であり立ち入ることが許されていなかった。

 7月27日から31日までを「初山」、8月1日から7日までを「七日堂」、8日から12日までを「「間の山」、13日から17日までを「盆山」と言った。 夏山初日(7月27日)の朝、下社から山頂へと続く参道の「登拝門」が開かれると、「サーンゲ、サンゲ、六根清浄(ろっこんしょうじょう)、お山は、晴天 ・ ・ ・ ・ ・ 」と白装束に身をつつみ、人々が山頂を目指した。
 
 明治時代になり、交通機関の発達もあり参拝者の増加、新たに4月5日から20日を「春山」と称し、参拝登山が許可されるようになったという。 現在は、老若男女、春夏秋冬、首都圏近郊の人気ハイキングコースとして週末には大勢のハイカーが訪れている。

 また、8月28日から3日間続く「秋例大祭」では、奈良・春日大社から伝えられたという「倭舞(やまとまい)」、「巫女舞(みこまい)」が奉納され、神奈川県の無形民俗文化財にも指定されている。

 さらに、「納め太刀」の風習は、源頼朝が石尊社に太刀を納め、「天下泰平・武運長久」を祈願したのが始まりとされ、江戸時代には庶民の間に「招福除災」の祈願に木太刀を納める風習として広まったと言われている。



● 参考資料
・ 落語にみる江戸期の「大山詣り」

  古今亭志ん朝(三代目)の「大山詣り」
   YouTube:https://www.youtube.com/watch?v=giCdjnjTPP0


  古今亭志ん生(五代目)の「大山詣り」・・・昭和の名人と称され、三代目・志ん朝の師匠で父親
   YouTube:https://www.youtube.com/watch?v=3hf-BAHFS8Y



・